【衝撃の実話】終戦後、北朝鮮で難民となった6万人の日本人を脱出させたゴリゴリの反政府主義者の人生を賭けた生き方とは?(レビュー)
驚愕の実話を発掘――太平洋戦争の敗戦後、朝鮮半島北部に残され、難民となった邦人6万人を集団脱出させた人物を取り上げた一冊『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸・著/新潮社)が刊行された。 飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、多くの日本人を母国へ帰還させたとで、「引き揚げの神様」と言われた松村義士男の足跡を描いた本作の読みどころとは? 「噂の眞相」編集部に在籍し、「週刊文春」「週刊現代」記者を経てノンフィクションライターとなった西岡研介さんが綴った書評を紹介する。 *** 昭和の時代にはまだ、こんな益荒男(ますらお)がいたのだな――。平成、令和と時を重ねるにつれ、政治家や官僚、経済人から犯罪者に至るまで、日本人全体が、どんどん小粒になっていくことに鬱々とする昨今、そう思わせてくれる作品だ。 松村義士男(まつむら・ぎしお)。といっても、今の日本で彼の名前を知る人はごく僅かだろう。かくいう私も本書を読むまで、その名はもちろん、存在すら知らなかった。 1911(明治44)年、熊本県本庄村(現在の熊本市中央区本荘町)に生まれた松村は、故郷の小学校を卒業後、父親の仕事の関係から朝鮮半島、現在の北朝鮮・元山(ウォンサン)に移住。地元の中学校に進んだが、左翼運動に傾倒し、退学となった。 退学後は工場労働者として、労組の再建を画策したことから、治安維持法違反の容疑で逮捕される。その後、帰国して、共産党のオルガナイザーとなった松村は、党再建に向け、オルグ活動を活発化させた。当然のことながら、特高警察から目をつけられ、再度、治安維持法違反に問われて逮捕――とまぁ、筋金入りの共産主義活動家、当時の呼び方に倣えば、「アカ」である。 釈放後、松村は再び朝鮮半島に渡り、北朝鮮で終戦を迎えることになるのだが、そんなゴリゴリの反政府主義者だった彼が、だ。戦後、北朝鮮に取り残され、飢えや病気で死んでいく同胞の姿を目の当たりにして、義憤に駆られ、命懸けの「脱出作戦」に挑むのだから面白い。 1945年8月15日、日本の敗戦によって朝鮮半島が植民地支配から解放されると同時に、それまで彼の地に住んでいた在留邦人約70万人は事実上の「難民」と化した。 このうち北緯38度線以北、すなわち北朝鮮に住んでいたのは約25万人、以南の南朝鮮は約45万人。南朝鮮に進駐した米軍は、在留邦人の日本への送還を徹底させ、45万人の引き揚げ作業は、終戦翌年の46年春までにほぼ完了したという。その一方で、北朝鮮に侵攻したソ連軍は38度線を封鎖し、北朝鮮にいた25万人の邦人は彼の地に閉じ込められる形となった。 さらに、ソ連や旧満州と国境を接する北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)は、ソ連軍による侵攻で直接、戦火に晒された。終戦前には約7万4000人を数えた咸鏡北道の邦人のうち約6万人は、土地や家を捨て、その多くが着の身着のまま南に向かって避難した。 後に「避難民」と呼ばれることになる邦人は、咸鏡北道の南に位置する咸鏡南道(ハムギョンナムド)の中核都市、咸興(ハムン)などに殺到した。が、咸鏡北道の山間部を、1カ月以上も歩き続けるという逃避行の道中で、力尽き、命を失った高齢者や子供も少なくなかったという。