映画『四月になれば彼女は』:圧倒的なエモーションと映像で紡ぐ「愛」の消失
巨大な空洞とエモーション
婚約者である弥生との現在と過去、10年前の春との初恋、そして遠く海外から届けられる春の手紙──4つの時系列が錯綜する物語の中央に存在するのが主人公の藤代である。原作でも言及されるように、藤代は周囲から見て、しばしば何を考えているのかわからないようなキャラクター。演じる佐藤健は、個性に富んだ登場人物たちのなかで、藤代という巨大な“空洞”を体現した。 弥生が失踪した後、藤代は頼るあてもなく弥生の妹・純(河合優実)を訪ね、しばしば親友のタスク(仲野太賀)が営むバーで酒を飲む。純とタスクは藤代に厳しい言葉を投げかけるが、それらが藤代に響いているのかは判然としない。そのとき、藤代の言葉自体にはやはり大きな意味がこもっていないのだ。 しかし監督の山田は、そんな藤代という“空洞”からとめどない感情があふれる瞬間をとりわけ大切に撮る。藤代と春が朝日を見るために歩く長回しと、(具体的には記さないが)藤代が力のかぎり疾走する2つのシーンは、まるで「映画とはアクションとエモーションである」と言わんばかり。映画が劇的に動き出すときは、藤井風による主題歌のタイトルよろしく、必ず藤代という“空洞”にエモーションが「満ちてゆく」のである。 ここで特筆しておくべきは、原作に登場しない唯一の映画オリジナルキャラクターである、春の父・衛(まもる)だ。登場シーンこそわずかだが、演じる竹野内豊は、藤代と対になる“空洞”としての衛の孤独と狂気を異質の存在感で表現した。では、衛という空洞は何によって満たされているのか? 一見低体温で醒めているようにも思える本作だが、ラストに至っては、実はきわめて情熱的な愛の物語だったことがわかる。原作小説だけでは気づかないような側面が浮き彫りになったのは、まぎれもなく、画とエモーションで物語を語りきった演出・翻案の勝利だろう。原作者の川村がプロデューサーとして手がけた、『君の名は。』(16)や『天気の子』(19)など新海誠作品との間にも類似性を見出だせるのは偶然か、それとも必然だろうか。 一般に小説の映画化といえば、異なるメディアで同じ物語を紡ぐものになることが少なくない。そうしたなかで本作は、川村の小説を起点に、はっきりと新たなストーリーテリングとなった。けれどもこれは、明らかに原作が描いた『四月になれば彼女は』の物語でもある──その卓越した両立は、小説にとっても、映画にとっても幸福な結果ではないか。