映画『四月になれば彼女は』:圧倒的なエモーションと映像で紡ぐ「愛」の消失
小説から映画へ、大胆な脚色の妙
映画化のポイントは、川村自身も脚本に参加したうえで大胆な脚色が施されたことだ。全体の構成を変更し、登場人物も整理したことで、この物語が藤代・弥生・春のラブストーリーであることが際立った。弥生の失踪と春の手紙をめぐるミステリーとしての性質も強まっている。あとから原作を読むと、弥生の妹・純と藤代の関係や、友人であるタスクの人物造形の違いに驚かされることだろう。 小説ならではの“言葉だけが物語を推進する”ストーリーテリングも、本作では“映像こそが物語を推進する”という映画ならではの語り口に置き換えられている。冒頭、春の乗る車がウユニ塩湖を走り、手紙のモノローグが重なってくる美しいファーストシーンからそのことは明らかだ。これに続くのが、藤代と弥生が結婚式場を訪れ、ふたりで自宅へ帰っていくシークエンスと、そして穏やかな同棲生活である。 「結婚したら2年で愛は情に変わる」──弥生の読み上げる言葉が示唆するように、藤代と弥生の同棲生活には、“日常”のすさまじい引力が見え隠れする。朝、藤代はまだ寝ている弥生に何ひとつ確認することなく食パンを2枚焼くのだ。そこに特別な言葉は必要ない。 米津玄師「Lemon」や宇多田ヒカル「何色でもない花」、あいみょん「マリーゴールド」などのミュージックビデオを演出してきた監督の山田は、こうした映像と芝居の力で、何気ない場面からも「愛はどこに消えたのか?」という作品の核心をあぶり出す。雄大な自然から微細な表情の変化までを鮮やかにとらえる今村圭佑の撮影と、細部まで作り込まれた美術と照明による“一瞬の画”の積み重ねは、いわば映画版『四月になれば彼女は』の“文体”というべきものだ。 したがって奇妙なことに、この映画は小説原作にもかかわらず、意外なほど台詞(せりふ)に頼っていない。ときに愛を語る言葉は白々しく聞こえもするが、それ以上に大切なものが言葉以外──それは人物の視線や距離であったり、ふたりの間にある空気であったりする──に宿っていることを映像のほうが雄弁に物語るのだ。