「近くの道場に自分で電話して(笑)」心臓手術を乗り越え、柔術大会で優勝した“高田延彦62歳のいま”「(ヒクソンを)恨んだことはないよ」
「(ヒクソンを)恨んだことはないよ」
――でも、『PRIDE.1』(1997年10月11日、東京ドーム)でブラジリアン柔術界のトップであるヒクソン・グレイシーに敗れて各方面から叩かれた時は、柔術に対して恨みのような感情をいだいたこともあったんじゃないですか? 「恨んだことはないよ。叩きのめされたけどね。ヒクソン・グレイシーがやっていたことが柔術だったというだけで、トップ柔術家と闘いたかったわけじゃないから。ただ、これは後から気がついたんだけど、ヒクソン・グレイシー=柔術といってもいいくらいの存在だったんだよね。彼こそがスペシャリストであり、オーソリティだから。そうなると当然、柔術というもの自体にも興味は湧くよね」 ――ヒクソンを通じて柔術のすごさに気づいたことで、もっと深く知りたくなったというか。 「だけど、すぐには自分でやろうとは思わなかった。俺が柔術を始めたのは2018年からだから。引退して16年くらいでしょ」 ――引退して16年経ってから柔術を始めようと思ったきっかけはなんだったんですか? 「何か自分の中できっかけになるような変化があったわけじゃないんですよ。引退後はグラップリングとか組み技系の練習は、もう遊びでもやってなかったし。ただ、50代後半を迎えて還暦も近くなってきた中で、筋トレばかりじゃおもしろくないし、最近ちょっと脂肪も付いてきたし、もう少しいろんな動きがあって、今まで自分がやってきたことも少し使えるスポーツは何かと考えたら、柔術しかないなと。柔術はあまりケガもないって聞くしね。 だから、あんまり頑張らずにおじいちゃんの健康維持程度にやってみようと思って始めたら、ハマっちゃったんだよね。それがきっかけだから。誰かに誘われたとか、そういうんじゃない」
「家の近くの道場に自分で電話して(笑)」
――柔術に対するトラウマが解けてきたとか、そういうことでもないわけですね。 「まったくそういうことじゃない。家の近くで柔術やってる道場をGoogleで調べて、自分で電話してるんだから(笑)。誰かに言われたとか、今言ったような呪いが解けたというようなことはまったくない。ただ、1993年に第1回UFCでホイス・グレイシーが出てきた時に衝撃を受けてから、ずっと自分の心の奥底に『柔術ってすごいんだな』という思いはあったから、いろんなタイミングが重なって、自分の中でノックしたんじゃないかなと思う」 ――髙田さんは今年1月、ロサンゼルスにあるヒクソンのジムを訪れて、ヒクソン・グレイシーと再会して個人的なレッスンも受けられましたよね。柔術を始めてから、ヒクソンに対する思いというものは変わりましたか? 「思いというか、1997年の時点でこれを知っていたら試合してないね(笑)。彼は今でも柔術の顔、象徴だからね。長く柔術をやってる人はみんな言うんですよ。『柔術をプロペラ飛行機からジェット機にしたのはヒクソン・グレイシーだ』って。それぐらい柔術を進化させた人だから。そういう人と2度も試合をさせてもらえたことに対して、今は感謝の気持ちがすごくある。そして、さっきも言ったとおり、柔術に出会えたこと、そして自分が柔術を続けられるように協力してくれる皆さんに感謝しながら、これからも柔術に取り組んでいきたいね」 かつてブラジリアン柔術の達人ヒクソン・グレイシーに2度にわたって敗れ、プロレスラー人生を大きく変えられた髙田延彦。あの闘いから27年。「柔術は人生を豊かにするもの」と言われているが、今、髙田はまさにそれを実践しているのだ。
(「ぼくらのプロレス(再)入門」堀江ガンツ = 文)
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