「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる理由。学習塾の経営者が抱く、「学び」を重視し「勉強」を軽視する風潮に対する違和感
勉強の価値を信じない人のなかには、「学校で習ったことなんて何も覚えていないから、意味がないよ」という人もいます。でも、そもそも大人は、自身の過去の勉強が現在どう役立っているかを認識できるほどの高い解像度で生きていないのです。 学校で『徒然草』や『平家物語』の冒頭文を音読したり暗唱したりしたことは、いまの自分に何の影響も与えていないと思うかもしれませんが、古めかしい文章を読み上げたそのときには、確かに自身の意識と身体が変化して、その変化の後に各々の人生を積み上げてきたわけです。これは案外重い事実なのですが、それを意識しながら生きている大人はほとんどいないでしょう。
ただし、困ったことに「勉強」には向き不向きがあります。いや、正確には「勉強」はすべての人に開かれており、そんなものはないはずなのですが、受験をはじめとするコンペティションの環境のなかでは、どうしても自分が他人より見劣りすると感じて、勉強なんかやってられなくなる。その意味において向き不向きがあるのも事実です。 だから、競争原理に基づく勉強は、ごく少数の上位者にとって気持ちのよいものでしかなく、他の人たちが勉強嫌いになるのは必然の帰結でしょう。
でも、日々子どもたちに勉強を教えている多くの指導者たちは、勉強ができないと下を向いている子たちにこそ、明るく前を向いて勉強してもらいたいという願いを抱いているものです。そして、暗記が得意な子たちにも、もっと身体性をともなった全身的な深い学びを得てほしいと考えています。 ■「学び」が発生するには だから、さまざまな現場で「学び」が自ずと発生するような装置について知恵が絞られているのですが、その装置のまん中にはやはり人間がおり、その人の教育に対する熱意や方法論だけでなく、単に子どもに振り回される勇気や、自らの醜態をさらす覚悟なんかが、装置を稼働させる鍵を握っていたりするものなのです。
私の新著『「学び」がわからなくなったときに読む本』には学び人たちの多くの実践が綴られています。 そのエピソードのなかから勇気を得た読者の皆さんが、日々における自己の学び、他者との学びのために力を尽くし、その成果が結実することを切に願っています。
鳥羽 和久 :教育者、作家