「暗記勉強は無意味」では全くないと断言できる理由。学習塾の経営者が抱く、「学び」を重視し「勉強」を軽視する風潮に対する違和感
暗記偏重の「勉強」よりも、「自分で未来・社会を切り開いていくための資質・能力を育む」ための「学び」こそが必要であるとの方向転換がなされたわけです。 しかし、僕はこの方針に対して懐疑的です。基礎知識がないままに探究学習を進めることは、ピースが足りないジグソーパズルを組み立てるような、どだい無理なことをやらされているにすぎないのではと思えるのです。 ■「つまらない大人化」を加速させる授業 以前、小学校の「哲学対話」に招かれて、授業のサポートをした際に痛感したのは、小学生たちに下手に議論をさせたところで、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うようなものにしかならないということでした。そして、その行きつく先は、いかにも社会適応的で常識的な議論でした。こういう議論の練習をしたところで、早期の「つまらない大人化」を進めるだけ、そんなふうに感じました。
僕が授業をサポートしたのは一般の公立校ではなく、果敢に新しい教育にチャレンジしている小中一貫の難関校です。その学校の生徒は、大人の意図に適応することに長けている子が多いと感じました。探究型学習に積極的な学校ですが、子どもたちがそこで身につけているのは、個性と呼ばれるような独特さとは無縁な、より高度な協調性と規範性でした。 新しい教育がさまざまな現場で試みられています。しかし、それらの多くが「新しさ」という甘い蜜に引き寄せられた向こう見ずなやり方にすぎないと感じています。アクティブ・ラーニングは、かえって学力格差を拡げる懸念があることが昨今指摘され始めましたが、そんなことは現場にいる人間ならわかり切っていたことです。
杓子定規な学力的評価を捨てたうえでの振り切った改革であるのならまだ理解できるのですが、そうではなく、学力評価の価値観をそのままに、基礎力をないがしろにするような改革をしたわけですから、迷走しているとしか言いようがありません。 僕自身は、いまだ「学び」というよりは、暗記中心の「勉強」が必要だろうと感じています。なぜなら、暗記した言葉の一つひとつが、その人の思考の足掛かりになり、その結果、思考を深めることができるからです。そして、思考の足掛かりを生成AIなどに肩代わりさせることは、自分独特の生き方を手放すことになるのではないかと危惧しているからです。