「借金は嫌だから自己資金。100軒売ったよ」不動産業で大成功…J通算99発ブラジル人FWの“意外な引退後”「33億円移籍で挫折」の真相も語る
U-20代表ではFC東京で同僚になるジャーンと
――最初に所属したチームと、プロを目指そうと思ったきっかけは? 「村の少年チーム。ポジションはCFで、ずっと年上の子供たちともプレーした。1986年、7歳のときにW杯メキシコ大会をテレビで見て、CFカレッカに憧れた。彼のような強力なストライカーになりたい、と強く思ったんだ」 ――実は、僕はあの大会を現地で観戦して、準々決勝フランス戦のカレッカの先制ゴールも見たんですよ。 「へええ、そうなのか。それは素晴らしいし、羨ましいな」 ――その後は、どのような道を歩んだのですか? 「10歳で地元のボタフォゴ(注:リオの古豪ボタフォゴと通称が同じだが、別のクラブ。ソクラテスやらいーっを育んだ)のU-11のテストを受けて合格した。U-11は市内に住む選手を集めただけだから弱かったのだけど、U-15ではサンパウロ州全土から選手を集めたので強くなった。サンパウロのビッグクラブのU-15と対戦しても互角に戦えるようになった」 ――プロデビューは1995年9月、16歳のときですね。 「ブラジル3部の試合に出場したんだけど、緊張のあまり足が動かず、得点はおろか、シュートすら打てなかった。でも、次の試合で右からのクロスを頭で決め、初得点を記録した。96年にはプロ契約を結び、収入が大幅に増えた(チーム最多の12ゴールで2部昇格に貢献)。1997年7月にはU-20ブラジル代表に選ばれ、これでプロとしてやっていける、という手応えをつかんだ。このときのメンバーに、後にFC東京でチームメイトとなるCBジャーンがいたんだ」 ――そんな縁があったんですか。若手屈指のCFとしてオファーが殺到し、1998年5月、19歳で南部の強豪アトレチコ・パラナエンセへ移籍します。 「リベイロン・プレットは1年中暑いんだけど、クリチーバは冬はかなり冷える。知っている人が誰もいなかったし、適応に苦しんだ。最初はCFの控え。でも、レギュラーが故障して使ってもらえるようになり、ポジションを手にした。1999年には6月、クラブが建設した新スタジアムのこけら落としの試合でクラブ初のゴールを決めたのが記憶に残る。そして、翌年のコパ・リベルタドーレスの出場枠を争う大会の決勝クルゼイロ戦の第1レグでハットトリックを達成した。1部で28試合12ゴール。プロとしての土台を築いた年となったんだ」
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