関大野球部のサインボール79年ぶりハワイから帰国
関大野球部のサインボール79年ぶりハワイから帰国 THEPAGE大阪
第2次世界大戦が始まる直前の1936年、関西大学野球部がアメリカ・ハワイへ遠征した際、地元の少年に贈ったサインボールが発見され、遠征で主将を務めた中心選手の遺族の意向でこのほど、79年ぶりに関大へ里帰りした。サインボールは現在、同大学千里山キャンパス簡文館で開催中の関大野球部100年記念展で一般公開。学生野球を通じた日米交流史の一端をうかがい知ることができる。
1936年ハワイへ遠征し国際親善に努める
サインボールを提供したのは、ハワイ大学コミュニティ・カレッジズ名誉総長のジョイス津野田幸子さん(77歳)。関大野球部出身で大阪(現阪神)タイガースの主力投手として活躍し、野球殿堂入りをはたしている故・西村幸生さんの長女だ。 関大野球部は1915年創部。主将の西村投手を含む野球部18人がハワイに遠征した36年、ホノルルの親善試合でバットボーイとして試合の進行を手伝った日系少年に、選手団がサイン帳とサインボール3個を贈って帰国した。遠征はハワイ各島を巡り、20勝2敗の好成績だった。 西村投手は大学卒業後、大阪タイガースに入団。1年目からチーム優勝の立役者となるなど、エース格として活躍した。しかし、戦局が悪化する中、44年応召。翌45年、フィリピンで戦死。77年には野球界に対する貢献が評価され、野球殿堂入りをはたした。
元バットボーイの家族がサインボール保管
2002年、ハワイから関大へ遠征選手団のサイン帳のコピーが送られてきた。何人かの仲介者があったため、差出人の特定までは至らない。辛うじて「こいでさぶろう」という名前の人物ではないかと推定できた。 今年1月、創部100周年記念式典に招かれた幸子さんが、このサイン帳の存在を知る。幸子さんはハワイ遠征の様子を知りたいと、元バットボーイの「こいでさぶろう」さんを探し出すことを決意。ハワイのメディアに掲載した「尋ね人」情報などが機縁となり、「こいでさぶろう」さんが、ニューヨーク州在住のサミュエル・コイデさんであることが判明した。 幸子さんがコイデさんに「遠征チームのエースだった西村幸生は私の父です」と明かした。すると、コイデさんは驚きながらも、「ニシムラはグレートピッチャーだった」と当時の鮮明な印象を語ってくれた。コイデさんとの交流を通じて、ハワイのコイデさんの実家に、3個のサインボールが保管されていることも、初めて分かったという。 幸子さんはコイデさんから3個のサインボールを譲り受け、遠征メンバー表などと照合すると、メンバー全員のサインが3個に分けて書き込んであることが確認できた。資料的価値の高さに気付いた幸子さんは、サインボールを関大へ里帰りさせることを決めた。