歴史に残るモンスターが降臨|アウディ・スポーツ・クワトロ【前編】
ちょうど40年前、アウディはグループBラリーの覇権を握り続けるためにスポーツ・クワトロを生み出した。グレン・ワディントンとともにその節目を祝ったのは、伝説的ドライバーのスティグ・ブロンクヴィストである。 【画像】伝説のドライバーが駆るモンスターマシン、アウディ・スポーツ・クワトロ(写真7点) ーーー 我々『Octane』に関わる者は皆、言うまでもなく自ら運転することが大好きだが、時にはパセンジャーシートこそが最高という場合もある。1984年ワールドラリーチャンピオンである伝説的ドライバーのスティグ・ブロンクヴィストの隣のシートに座っている今の私がまさしくそれだ。ブロンクヴィストは1985年もシリーズ2位に入ったが、この2シーズンはアウディ・スポーツのワークスドライバーだった。 ●最高のコドライバーズシート インゴルシュタットを本拠地とするアウディは1984年シーズンに向けてさらに炎を掻き立てていた。ライバルを退けて王座を守るために、より短い、よりパワフルなグループBマシーンを開発していたのである。その車こそ「技術による先進」を体現したスポーツ・クワトロである。あれから40年の時を超えて、歴史に残るドライバーとマシーンが再び巡り合うことになった。ただし今回はコドライバーのみ経験不足である。 実はスティグの隣に座るのも、このアウディに乗るのもこれが初めてではない。私たちは2021年にもサン・ロモロで一緒に時間を過ごした。サン・ロモロは、イタリアのサンレモ・ラリーの有名なマウンテン・ステージで、その40年前にミシェル・ムートーンが初めてのグループB勝利を獲得し、またアウディにとってはグループBでの2勝目を挙げた場所である。さらに1985年には、スポーツ・クワトロの最後の勝利の舞台となったイベントでもある。このスポーツ・クワトロは1984年製で、ワルター・ロールとクリスチャン・ガイストドルファーの二人が1985年の開幕戦モンテカルロ・ラリーで2位に入り、その後開発用車両として使われた車である。それゆえに素晴らしいコンディションを保っている。 アウディ・トラディションの所蔵品であるこの車は、今もオリジナルの直列5気筒ターボエンジンを搭載している。ただしミュージアムのエンジニアによると、保存のためにブースト圧は少しだけ下げられており、おそらく最高出力も若干低い414bhp/7500rpmというが、その違いに気づく者はいないだろう。何しろスティグがリストランテ・ダラーヴァから弾丸のように飛び出し、優雅な地中海に面したリゾートであるサンレモを見下ろすチンクエ・ヴァッリの狭い曲がりくねった山道をとんでもない勢いで走り出したのである。聞き覚えのあるやや不揃いのバリトンの音が岩肌に反響するのを聞き、そして燃料のかすかな臭いを嗅ぎながら、私は必死にスティグがスティグである理由を見きわめようとしていた。 彼は長身ではなく6フィートに満たないぐらいだが、シートをずいぶん後ろに下げて座り、滑らかにリラックスして、だが集中してインチ単位の正確さでクワトロを走らせていた。 速いかって?それはもう当然というか、それを楽々と超えるほどである。目まぐるしく動く彼の手や足から目を引きはがしてフロントウィンドー越しの景色に集中しなければいけないほど、素晴らしい風景が飛び去る速さといったら信じられないぐらいだった。それにもかかわらず、彼は「たぶん70%ぐらいかな」で運転しているのだった。そう、スティグは74歳の当時もまったく変わっていなかったのである。 今回は違う。私たちは素晴らしい天気の下、バヴァリアの道を走っている。アウディの本拠地インゴルシュタットから一時間ほど離れた昔風の村が点在する田舎道である。今度こそ、かってと同じくスムーズにリラックスして、車と一体化しているような彼の運転がどのようなものかを見極めるためにここに座っているのだ。 「まるで旧友と再会したかのようだ」とスティグは穏やかに笑う。同じスカンジナビアンのアウディ・スポーツのドライバーだった亡きハンヌ・ミッコラのように、最初のうちはむしろ人見知りと言えるほどに控えめで物静かである。休憩地点からスタートする時には、不機嫌そうに荒々しくアイドリングする5気筒をひとつの家畜の群れのように手懐け、正確なポイントでクラッチをミートし、そしてその先は何の抵抗も感じられない。シフトアップ/ダウンは常に電光石火だが、ドライブトレーンのスナッチも回転のブレも皆無であり、エンジンとプロップシャフトが常時同じ速度で回っているかのようだ。完璧なのである。 派手なHBカラーをまとったワークスカーはその実力を完全に解き放たなくても十分に俊敏だと思われたが、他に車がいない長いストレートを見つけた彼の瞳がきらめき、かすかにほほ笑んだと思った時、ハンマーが振り下ろされた。 解き放たれたパワーによって、わずか数秒間ながら猛烈な加速を、生きる勇気を与えるようなグループBの真の姿を垣間見ることができた。スティグはもう一度本当のスティグに変身した。車のあらゆる部分が息を吹き返し、エンジンの轟音の他には何も聞こえないと同時に、路面の小さな回凸さえもシートを通じて感じ取ることができる。これは罰ではなくコミュニケーションだ。すべてのメカニズムがこれほど活き活きと感じられる車は、私の知る限り他に250GTOだけである。 もちろん、コントロールされないパワーに意味はない。ただそのやり方がまさしく常人ではない。グループBカーには当然強力無比なブレーキが備わっており、実際に高速からのブレーキングでは5点式ハーネスが食い込むのだが、スティグはそれを最小限でこなす。最短距離で正確に必要な速度までブレーキングするのだ。シフトダウンが必要な場合は完璧なヒール&トゥが加わる。コーナー進入の際も髪の毛ほどの不安も感じさせない。常に精密で正確である。これぞチャンピオンの運転と言うほかない。 ●クワトロが拓いた新時代 途中で立ち寄ったバイルングリースのホテルで、スティグのアウディ・スポーツでの輝かしい経験について詳しく話を聞くことができた。彼が認めたところでは、サーブでのラリーキャリアが1982年にアウディに加入した時に役に立ったという。 「4WDは後輪駆動とはまったく違う」と微笑みながら彼は説明した。「スロットルでコントロールすることができないから、サーブの時と同様のテクニック、すなわち左足ブレーキングでコーナー進入の姿勢を整えるんだ。オリジナル・クワトロ (ur-quattro)はトラクション性能が飛び抜けていたが、あの時代のターボカーの加速は今とは大きく違った」 次の大きなステップは1984年シーズンにやってきた。20バルブ・ヘッドと大型ターボのおかげで、ロングホイールベースのクワトロよりパワーが一気に112bhp増大したショートホイールベースのスポーツ・クワトロが投入されたのである。 「私は慎重な性質だから最初は旧型を使い続けたけどね。コーナーではややトリッキーだったから、ドライビングスタイルをちょっと変えなければいけなかった。トラクションをコーナリングではなく、加速とブレーキングに生かす必要があった。初期の一番の問題はピッチングで、ショートホイールベース仕様では特に顕著だった。そこでターマックではよりハードなサスペンションを、グラベルではより柔らかくセッティングした。私の好みはいつもロングホイールベースだったが、スポーツ・クワトロはハンドリングの問題を埋め合わせて余りあるエンジンを搭載していた」 その後も進化は留まることがなかった。「最初は50:50のトルク配分で始め、その後センターデフが投入された。コーナリングは向上したものの、当時はレスポンスにやや遅れがあった。私はフロントにリミテッドスリップデフを装着したが、ミッコラは付けないほうを好んだ。私はサーブ時代に慣れていたステアリングと同様にするようこだわった。実はサーブにはパワーステアリングがなかったんだ!」 そしてスポーツ・クワトロは大型の空力付加物と、同じ2143ccの5気筒から473bhpを絞り出すエンジンを持つ「E2」バージョンに進化する。 「スタビリティとコーナリングスピードが激変し、ピッチングの問題も解消した。グラベルラリーが最適だったと思う。とてつもないパワーを使いこなさなければならなかった。だがクワトロでの勝ち方を学ぶには時間を要した。勝利はマシーンだけでなく、ドライバーだけでもなく、すべてのオペレーションの問題なんだ。私たちは少しずつ階段を上がってきた。アウディがマニュファクチュアラーズタイトルを獲得した1982年にミシェルが惜しいところでドライバーズ・タイトルを逃したが、ハンヌが83年にタイトルを取り、翌84年は私が勝った。すべてが揃わないとうまくいかない。アウディは大きな予算を持って突然ゲームに加わった。結果を残さなければいけなかった」 同じチームに複数のスタードライバーが在籍すれば当然ライバル関係が生ずる。 「皆やるべきことを知っていたし、どうすればいいかも分かっていた」とスティグは何でもないことのように語る。「私たちには皆同じチャンスがあった。問題があったとすれば、それはアウディ・スポーツのほうだね!たとえばワルター・ロールは、単に彼の好みとしてすべてのラリーには出場しなかった」 ご存知の通り、グループBは1986年いっぱいで終焉を迎えたが、スティグはそこまでは必要なかったと考えている。 「ある程度の経験を持つドライバーにとっては車をコントロールするのは難しくはなかった。どこかで間違った決定があったんだと思う。そもそも一年も経たないうちに、グループAカーのほうが速くなったからね!グループBの最後のシーズンはフォードRS200とプジョー205T16に乗った。だから他のドライバーよりグループBカーの経験は多いと思うよ。それでもロングホイールベースのアウディが今までで一番のお気に入りだ」 次は私がステアリングホイールを握る番が、ただしワークスラリーカーではなく、164台(トータルでは224台) 製造されたロードカーのうちの一台である。320mm切り詰められたホイールベースを備える"ショーティー”は、オリジナル・クワトロとは明白に異なるプロポーションを持つ。いっぽうで大型のインタークーラーを収めるためにノーズはより長く、ドライバーを悩ませた眩しい反射を減らす目的でウィンドスクリーンもより直立している。 この車は306bhpを生み出すオールアルミのツインカム20バルブエンジンを搭載する。スチールのシリンダーライナーを持つのも特徴だが、そのおかげで標準型よりも頑丈ではないと言われており、結局多くの車がスチールブロックをレトロフィットしているという。貴重なホモロゲーション・スペシャルを維持するのは簡単ではないのだ。すべての車両が左ハンドルであり、英国では個人輸入の形でしか手に入れることができなかった。当時6台が輸入されたと言われている。現在の価値?50万ポンドぐらいだろうか。ヒストリーがはっきりしているワークスカーはこの3倍から4倍はするはずだ。 ロードカーは0-60mphを5秒以下で加速するというが、これほどの性能は1984年当時ではきわめて稀だった。KKKの大型ターボを装備したこの車の加速性能は4.8秒、当時のポルシェ911ターボと同等である。それでいながらすべてが文化的だ。バケットシートは快適で、ドアハンドルや物入れにもレザーのトリムが施されている。ドアそのものも1980年代のドイツ車がそうあるべきようにカッチリ閉まる。100サルーンを思い出させるダッシュボードは専用デザインで、これに比べるとオリジナル・クワトロのビジネスライクなダッシュボードはちょっと古臭く見える。 ターボによって若干音量が下がっているのだろうが、5気筒エンジンは意外に静かである。5段マニュアルギアボックスはほんの少し渋さがあるが、正確に操作できる。引き締まったフラットな乗り心地は硬いというよりむしろ快適と言っていい。ステアリングは適度にシャープで、ショートホイールベースだけあって回頭性は高いものの、神経質には感じない。敏提だが洗練されており、限界域では神経質になるとは言われているが、私はまったく扱いにくくはなかった。要するに、4WDであることはほとんど問題にはならず、ただ純粋にスポーツ・クワトロのニュートラルな挙動を楽しめるということだ。アンダーステアにも気まぐれなテールの動きにもしえる必要はない。911ターボほどドラマチックではないけれど、オリジナル・クワトロから磨き上げられてきた性能は非常に高いレベルに到達しているのだ。 ・・・後半へ続く。 編集翻訳:髙平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Glen Weddington Photography:Audi
Octane Japan 編集部