《ブラジル》デカセギ 「帰りたくても帰れない」 在日日系社会の頭痛の種に
「9年ぶりに帰ったバストスは古臭い町だと感じたよ。スーパーの商品は埃を被っていて、入ってもすぐ何も買わずに帰ったことも多々あった」 養鶏の街として知られるバストスには、北東部などからの養鶏場での仕事を求める非日系伯人の移住者が増えていた。「昔は町に出たら日本語ばかり聞こえたけど、今はポルトガル語が聞こえてくる町になった」。帰国して2週間は現実を受け入れるのが大変だった。 ブラジル帰国後は、夫婦で料理を作って販売し、生計を立てることにした。 中西さんの奥さんのフサエさんのお母さんは料理上手で有名で、フサヱさんも美味しい料理を作った。最初は夫婦で試行錯誤しながらラーメン作りを始めた。浜松にいた頃、夫婦で営んでいる豚骨ラーメン屋に通っていて、「いつかラーメンをやりたい」とぼんやりと思っていた。 そして2016年頃、かつて養鶏場用に購入した土地に建てた自宅の車庫でラーメン屋をスタートさせた。当時は事前予約制で水・木・金のみの営業だった。 「中西さんがなにかやっているぞ」との噂が瞬く間に町中に広がって、あっという間に人気店に。「他の料理はないのか」との声が殺到し、2018年11月に現在の「Sushi da Felicia」を開店した。定食や寿司などメニューが豊富で、自慢は味噌汁。営業時間は週3日と変わらない。元々は養鶏場だった土地のため、市の中心部からは外れたところにあるが、開店日は毎日人で溢れかえるほどの人気日本食レストランとなっている。
多くのデカセギ日系人を見てきた中西さんは日本に長く暮らす息子さんを心配している。 「長男家族は今も浜松にいる。孫は小学生と専門学生だから、ブラジルに帰ってくるとしても数年後になる。20年も伯国から離れた生活をしていたら、こちらに帰ってきても働き口をみつけるのは大変だろう」 中西さんは長男の為にも自分の持っているバストスの土地を残しておきたいと強く思っているという。なぜなら「帰れないという相談を受けることがある」からだ。 デカセギ者が年をとると、就ける仕事が限られるようになり、アルバイトなど不安定な職に就くことが多くなる。ブラジルに帰る決断をしても、今のブラジル社会を知らなければ就職は容易ではない。 デカセギ中に日本で育った子は、ポルトガル語よりも日本語を喋り、日本で働く。そして結婚し、子どもを産み、家庭を築いたら、ブラジルに来ることはない。