《ブラジル》デカセギ 「帰りたくても帰れない」 在日日系社会の頭痛の種に
「ブラジルに帰れないデカセギ者が今後さらに増加し、日本の日系社会の深刻な問題になるだろう」。サンパウロ州バストス市の郊外で日本食レストラン「Sushi da Felicia」を営む中西功さん(和歌山県出身・71歳)は、かつてデカセギとして日本へ渡り、後に人材派遣会社を経営した経験を持つ。労使双方の立場を知る中西さんにデカセギについて語ってもらった。
中西さんは1953年、和歌山県新宮市で生まれた。58年、5歳の時に家族と共に45日間の船旅を経てブラジルへ。最初はマットグロッソ州ドラードスから約180km離れた山中に入植した。山中の入植先には危険な野生動物も多く居り、日露戦争と満州で従軍経験を持つ父ツネハルさんの指導で、7歳の頃から銃の練習をしたという。 入植から4年後、親戚を頼ってバストスに家族で移り住み、一家で養鶏業を始めた。中西さんはその後、同地で結婚。土地を購入し、自身で養鶏業を始めた。 中西さんの養鶏業は当初順調だったが、「厄年が終わってから業績が落ちていって…」とやがて借金を抱えむこととなった。 中西さんは47歳の時、借金返済のため、日本へデカセギに行くことを決めた。2000年1月、デカセギブームが始まった頃だ。 最初は単身で大阪へ行ったが、家族も後から来ることになり、2週間でブラジル人学校もある静岡県浜松市に移った。 「デカセギに行って1~2年は貯金のことばかり考えてるからお金は貯まる。だから3年で借金は返済を終えたんだ」 デカセギ3年目を過ぎたあたりから、借金返済のためにデカセギに来ていたことを忘れ、車や家などを買い、生活基盤を整えたくなった。デカセギから移住へと意識が変化していたという。 またこの頃、パチンコに熱中してしまい、「どんどん赤字になっちゃったんだよ。これからデカセギに行く人はパチンコには行くなよ」と笑いながら語った。
中西さんは一つの派遣先に長く勤めることが出来ず、様々な職を転々とした。「僕は日本語もわかるから工場勤務の時は辛かったよ。日本人がブラジル人を馬鹿にしている言葉を理解していたからね」。中西さんにとって、同胞への悪口は離職の原因になるほどのストレスだった。 一方、転職を重ねたことで、様々な業界の人材需要を知り、2006年には人材派遣会社を興した。 中西さんの会社では多い時には800人以上を派遣した。そこで中西さんは経営者として多くの日系ブラジル人と接することになる。 「夫婦子連れで日本に来て、日本で離婚してシングルマザーで頑張っている母親が沢山いた。中には、留守番をしていた子どもが家で亡くなってしまった人もいた。子どものことを想うと心が痛むよ。もし、今からデカセギに行く人は、子どもは誰かに預けていってほしい」 好調だった派遣会社を、2008年のリーマンショックが襲った。派遣者の200人以上がクビになり、中西さん自身も莫大な借金を抱えることになってしまった。仕事を求めるデカセギ者は居ても、紹介できる会社がない。2009年にブラジルに帰る決意をした。