井上尚弥はなぜ“いとこ”浩樹の日本王座奪取に辛口だったのか?
8ラウンドには左ストレートが続けてヒットした。 大橋会長が「下がるな!」「プレッシャーをかけろ!」と大声で怒鳴りラッシュを指令したが、そこから先も井上は、決めにはいかなかった。控えたのである。良く言えば最後までパンチのある細川の被弾リスクを回避する勝ちに徹するボクシングであり、悪く言えば、人気を集めるボクサーに必須の勇気が足りなかった。 5ラウンド終了時点では、3者がわずか1ポイントだけ井上につけていた採点は、終わってみれば「97-93」「98-93」「98-92」と大差がついていた。 完勝だったが、試合後、リングに上がった井上尚弥は「率直におめでとうと言いたいけど、これってところで行けない部分もあった。一緒に練習していきたい。今日は辛口で」と苦言を呈した。 控室で、その辛口発言の真意を問う。 「浩樹はもっと実力がある。今日は半分も良さが出ていないんじゃないか。モヤモヤしていると思う。でも、勝てたことにはほっとしている。こんなもんじゃないと、一緒に練習している自分たちが一番わかっている」 なるほどの理由である。 新王者はリング上で号泣していた。 アマチュア5冠のプライドを守り、そして、幼年期の頃から一緒に練習してきた井上尚弥、拓真兄弟に、小さな一歩、追いついたという安堵感が涙に変わった。だが、控室に帰ると、冷静に「安全運転しちゃったかな。もっとやれた」と反省が口をつく。 元王者の控室では、新王者を「強かった」と称えた細川が「燃え尽きたか」と専門誌の記者に聞かれると、唇を震わせ零れ落ちるものを堪えることができなかった。 「燃え尽きようと思って…負けるとやっぱ悔しいっす」 3度もタイトル挑戦に失敗。1年4か月前に36歳にしてやっとベルトを腰に巻いた苦労人の37歳は、その先の言葉を失った。 その涙の意味は、新王者にも伝わっていた。 「プロに入る前はもっと(日本王者のベルトは)軽いものかと思っていたが、いざ取ってみたら、相手も相手なので、凄く重い。プロと戦った、という気持ち。いろんな気持ちを背負っていると今日は身に染みて分かった。相手選手の分まで頑張っていこうと思う。スピリットを学ばせてもらった」 ベルトを抱えてこう語った。 魂や勇気を見せることのできなかった井上だが、この言葉を聞いて、彼は王者の資格のあるボクサーだと思った。 そして、さらに、こう続けた。 「疲れていないんですよ。もっと面白い試合がしたい。インパクトのある試合を」 このコメントを聞いた尚弥が「じゃあ、いけよ」と突っ込んだが、いとこは、ボクサーとしてかけがえのない教訓を得た。 体格差を生かした“ボクシング脳”に中量級離れしているスピード。「ほとんどもらっていない」というディフェンス技術……。まだ覚醒していないポテンシャルは、やはり井上家のそれである。そして足りないものを37歳の魂のボクサーに教えてもらったのである。 「急いでパスポートを取らなきゃな」 大橋会長は、5月18日に英国グラスゴーで行われるWBSSの準決勝、井上尚弥対エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)の試合への浩樹の同行を許可した。 すると井上はこう返す。 「会長! 現地でスパーリングできないですかね?」 もう井上家、3人目のチャンピオンの次なる戦いは始まっている。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)