端島と原爆 伝え続けた加地英夫さん死去 腹が飛び出した人、全滅の浦上を眺めていた12歳の少年
そのころ端島炭坑では炭層を追いかけ千メートル下まで坑道を掘り進めており、年間出炭量は最大40万トンを超えました。石炭の増産に伴い島の人口も増加。ピーク時には5,300人が生活し、人口密度は東京の9倍に達しました。 しかし、海外からの安い輸入炭や石炭から石油へのエネルギー革命が起こり、端島炭坑は1974年に閉山となります。 2015年には端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録。その年に加地さんは自叙伝「私の軍艦島記」を出版し、端島炭鉱の最盛期から閉山後までの島の姿を記しました。 ■生き抜いた92年、平和への願い 2022年2月にロシアがウクライナへの侵攻を開始してから、加地さんは平和への願いと危機感をより一層強くしたといいます。 加地英夫さん: 「ウクライナ侵攻が始まってもう3年目ですか。ずっとこの3年、このニュースをいつも見るようにしています。これから先どうなるんだろう。どこかが1発原爆を使えば、対抗してまた1発使う。そういうことしとったら地球は全滅するんじゃないでしょうか。原爆を使えばどうなるか、本当には彼らは分かっていない」 今年6月の取材時、91歳だった加地さん。同世代の被爆者がその体験を語れなくなってきている中、自身の使命として近隣の小学校で被爆講話を続けていました。 「体験者として、現場の話をどこにでも行って伝えたいです。放っておけないという気持ちでいっぱいなんです」 市民が暮らす頭上に落とされた核兵器。7万4000人の命が奪われた長崎原爆。凄惨な殺され方をした多くの市民の思いを、その一端を見聞きし体験した者として生涯伝え続けた加地さん。戦後は端島坑に就職して1974年の閉山まで働き、「一島一家」の精神で支え合った島の営みを伝える証言者としても活動しました。戦争の愚かさ、思いやることの大切さを伝え続けた人生でした。2024年11月18日、92歳でその生涯を閉じました。
長崎放送