端島と原爆 伝え続けた加地英夫さん死去 腹が飛び出した人、全滅の浦上を眺めていた12歳の少年
■燃える浦上 8月9日の夜、加地さんはおばと一緒に近所の学校のそばにあった防空壕で過ごしました。 「その日の晩はぐったりしてですね、一度だけ息苦しくなって空気を吸いに上がったんです。浦上の方を見たら…もうあの日の夜の浦上は火の海でした…。海が荒れて大きな津波が襲ってくるように火が浦上全体に襲い掛かっていた。シューっと上がっているのもあれば、下の方からもプシューっと上がってくる火もあって…波のように火がゆれてですね」 「浦上はもう全滅したなと思いました。学校はどうなっただろう。片付け掃除なんかで残っとる人がおったけど、あの人たちは避難しただろうか、逃げただろうかって浦上を見ていました」 加地さんが通っていた旧制瓊浦中学校は爆心地からわずか800メートルの場所にありました。原爆で校舎は全壊。学徒動員先で亡くなった生徒も合わせると、400人を超える生徒が命を落としました。 ■生まれ故郷・端島への帰還 加地英夫さん、被爆当時は12歳。おばのすすめもあり、数日後には両親の待つ生まれ故郷の端島に帰りました。 加地英夫さん: 「母親にしがみついて泣きました。助かったっていう気持ちと安心でですね。ひどかったーかあちゃーんと言ってから母に抱きついて泣いたんです。あの時涙が出て、涙が出て…嬉しくてですね。母は『今日帰らんかったら明日探しに行こうって、迎えに行こうってお父さんと話しとったよ』と言ってました」 ■被爆後の混乱、死の恐怖 故郷・端島に戻った加地さん。しかしその翌日から突然下痢と発熱に襲われます。心配した母親は柿の葉を煎じて飲ませ、看病してくれました。同じ頃、長崎から端島に戻った同じ中学の先輩が亡くなりました。元気だったのに…。自分も死ぬのだろうか…。 「助かったぞ俺は!と言っていたのが、死んだってきいて…。原爆でピカドンに当たった人、光に当たった人は死んでしまうと色んな評判が出てきてですね…俺もそうなるとかなと思っていました」