端島と原爆 伝え続けた加地英夫さん死去 腹が飛び出した人、全滅の浦上を眺めていた12歳の少年
■8月9日、満員の路面電車 1945年8月9日は1学期最後の試験が終わった日でした。 加地英夫さん: 「ちょうど試験の1学期の試験があって、もうこれで最後この試験が終わったら夏休みだよということですね。8月9日」 英語の試験を終えて路面電車に乗り込んだ加地さん。乗った電車は稲佐橋の近くで故障で停車してしまいました。ほぼ満員だったという路面電車の中で、加地さんは電車が走り出すのをじっと待っていました。 「止まった電車の中で待っていると、爆音が聞こえてきたんです。あれ?爆音がするな、急降下して爆弾を落とすんじゃないだろうかと思って。ずっと先の方は長崎駅ですからね。駅は狙われて爆撃されると聞いていたから」 「爆音が段々ひどくなるから、身構えましたよ。何か起こるぞという感じで。もうその時は敵の飛行機が駅めがけて急降下している爆音じゃないかなと思ってですね」 徐々に爆撃機の音が大きくなる中、加地さんはその時を迎えました。 1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。爆心地から1.8キロ離れた長崎市寿町(現・宝町)の路面電車の中で被爆した加地さんは、当時12歳。瓊浦中学校1年生でした ■8月9日午前11時2分 「もう目の前でピカっ!と光ったですね。白と黄色が混じり合った色が目の前でピカっと光って、はっとして、すぐ座り込むときに、今度はドカーン!と音がしてですね、耳が聞こえなくなるようなものすごい音でした」 原爆の光と爆音。そして熱さも加地さんを襲います。 「同時に左のほほの方が熱い!と感じたんです。あつっ!て思わず左手でおさえました。大変だと思って座り込んで、学校で教えられた通り目と耳をふさいで。そしたら立っていた人たちが、ガー!と私の上にのってきて押しつぶされました」 満員状態だった路面電車の中で、ドアの近くにいた加地さんは押しつぶさながら、必死に外に出ました。すると、周囲は不気味に薄暗くなっていました。