なぜ東武鉄道沿線は地域開発でおくれをとり、他の私鉄のような商業的・文化的蓄積が生じなかったのか…その誕生からひもとく
『沿線格差』という言葉を目にすることが増えましたが、フリーライターの小林拓矢さんいわく、「それぞれの沿線に住む人のライフスタイルの違いは、私鉄各社の経営戦略とも深くかかわっている」のだとか。今回はその小林さんに「東武鉄道沿線の魅力と実情」を紹介していただきました。東武鉄道は、都市圏の通勤・通学を主たる任務とする鉄道として生まれたわけではなかったそうで――。 【書影】関東8大私鉄の「沿線力」を徹底比較!小林拓矢『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』 * * * * * * * ◆東武鉄道沿線の魅力と実情は? そもそも東武鉄道は、都市圏の通勤・通学を主たる任務とする鉄道として生まれたわけではなかった。 東京都を中心に、埼玉県・千葉県・栃木県・群馬県に広がる一大ネットワークとして誕生し、蒸気機関車の運行もあった。 現在でも、単線区間が残っているという状況である。群馬県や栃木県では、ローカル輸送に徹しているところもあり、“ミニJR”のようなネットワークの性質を持っている。 そもそも東武鉄道の発足は、1897(明治30)年。1899(明治32)年には、北千住から久喜(くき)を結ぶ路線として開業した。足利までを結ぶ路線として計画されていたが、開業当時には電化もされていなかった。 そのうえ、単線だった。それゆえ、鉄道国有化法案成立の際に、東武は国に買収される可能性もあった。 この時代にはもちろん、私鉄沿線ビジネスモデルというものはなかった。北千住と足利・伊勢崎を結ぶ鉄道として、長距離鉄道のようなダイヤで運行されていた。 明治時代末期から都市部で複線化が始まり、大正時代になって電化が開始され、ようやく都市鉄道としての条件を満たすようになっていた。
◆東武鉄道の歴史 最初のターミナルは北千住であり、その後、現在の「とうきょうスカイツリー駅」のあたりに「浅草」を名乗るターミナルを設ける。 隅田川は越えられないという状況であった。なお、このターミナルは「浅草」から「業平橋(なりひらばし)」へと名称変更し、貨物の取り扱いの拠点となっていた。 現在の浅草に東武鉄道が進出するのは1931(昭和6)年5月。この頃にはすでに、東京地下鉄道が現在の東京メトロ銀座線を開業させていた。 当時の浅草は、江戸時代から続く繁華街だった。浅草寺(せんそうじ)などを中心に、大衆演芸の一大拠点であり、庶民の娯楽の中心地となっていた。 この時代の下町は、工場などが密集し、その近くで労働者が暮らすという「職住接近」のエリアであり、商業的・文化的蓄積が伴うような私鉄沿線ビジネスモデルとは異なるライフスタイルを送っている人が多かった。 たとえば東上(とうじょう)線沿線では宅地開発を行ない、一定の社会階層の人たちへのサービスを提供することに成功している。 とはいえ、戦前の東武沿線はいまのように住宅が密集していたわけではなく、西新井あたりまでが通勤区間だったといえる。
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