神戸大空襲で九死に一生 原形ない遺体処理あたる 戦後79年―語り継ぐ戦争の記憶⑨/兵庫・丹波篠山市
今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は原田貞次さん(98)=兵庫県丹波篠山市西野々=。 太平洋戦争末期、神戸市は米軍による大空襲の標的になった。死者は7000人以上とされる。当時、警察官だった原田さんは同市で勤務していた。九死に一生を得ながら、原形をとどめていない遺体に数えきれないほど触れた。終戦後、思い出すのも嫌で誰にも語ったことがなかった。戦後から79年がたち、当時の記憶について初めて言葉を紡いだ。もう二度と、あの惨禍を繰り返してほしくないから―。 5人きょうだいの長男。実家は農家だが、慣例通りに長男が継ぐのが嫌だった。いとこが神戸市で警察官をしていた縁もあり、多紀実業学校(現・篠山産業高)を卒業後、警察官に。神戸・新開地の駐在所に配属された。 1945年3月の夜中、突如、空から大量の焼夷弾が落ちてきた。どこが安全かも分からない。警察官として人々を誘導する余裕はなかった。逃げまどう人の流れに任せて山の方へ走るしかなかった。「不思議と『怖い』とは思わなかった。とにかく逃げなければ、というだけ」 道路には黒焦げになっている人、服が焼けた人たちが転がっていた。50センチぐらいの不発弾もたくさん落ちていた。逃げる最中、背後のすぐそばに焼夷弾が落ちた。着用していた外套が「はさみで切ったように破れた」。あと数十センチでもずれていれば、体に直撃し、命を失っていた。 1キロほど走り、命からがら山へ逃げ込んだ。山頂から、日本軍が敵機を狙って高射砲を放っていたが、1機たりとも撃墜はできなかった。空襲は1時間ほどでやんだ。工場が密集する長田方面の空が真っ赤に染まっていた。繁華街の新開地の映画館も焼け落ちた。 翌日以降、空襲で絶命した遺体の処理にあたった。2、3日かけて車に積み込み続けた。皮膚が黒こげになり、棒のように細くなった遺体もあった。だが、「緊張のあまり、怖いとも、いやらしいとも思わなかった」。交番で何千人分ものり災証明書の発行手続きにも追われた。 6月、実家に召集令状、いわゆる「赤紙」が届いた。「ほんまは空襲のときに死んでいた。助かったのだから、いつ死んでもよい。国のためになれる」と喜んだ。陸軍に入隊し、大阪・堺市の連隊に配属された。 その後、「九州に敵が上陸する」との一報を受け、大阪から歩いて向かった。たつのに駐屯していた際、広島に原爆が投下されたという一報が入った。そして、小学校の講堂で天皇陛下による玉音放送を聞いた。「『えらいこっちゃ』と思った。がっかりした」 終戦後は、警察官として約40年間、県内各地で勤め上げた。 60人以上いた小学校時代の同級生はほぼ全員亡くなった。戦争の惨禍を伝え、つらさを共有できる「生き証人」が少なくなる中、戦争について話すことはなかった。 ウクライナやパレスチナ・ガザ地区など、世界各地で続く戦争の報道を見聞きするたび、心が痛む。「戦争は人と人との殺し合い。絶対にやめてほしい」と語気を強め、「平和な時代を維持するためには対話が不可欠。仲良くしてほしい」と切に願う。