なぜ日本では楽しさが究極の評価になり得ないのか? 楽しさよりも、〈ためになること〉を追う文化の貧弱さとは
カラダに従う #2
1975年に雑誌『新潮』に寄稿された谷川俊太郎のエッセイ『 楽しむということ』。楽しむという行為に対して、なぜ後ろめたさを感じるのかという彼の考察は、49年経ったいま、より現代人に突き刺さるものになっている。 【画像】日本とは異なる?アメリカ人のエンジョイ 『カラダに従う』より一部抜粋・再構成してお届けする。
楽しむということ
楽しむとはどういうことなのだろうか。悲しみや怒りにくらべると楽しさは分りやすい感情のように思えるので、私たちはしばしば楽しさとは単純なものだと考えがちだ。 自分が楽しんでいるかどうかは、すぐに分る。ところが自分が悲しんでいるのかどうかは、自分でも決定しかねることが多い。悲しみには他のたとえば怒りとか、憐れみとか嫉妬とかの感情が混りやすいが、楽しさはもっと純粋だと、そう言えるのかどうか。 それとも他の感情とちがって、楽しさにおいては、人間は自分をいつわることが少いのであろうか。 楽しいと言ってしまえば、そのあとにはもう余分な言葉や説明は不要なように思えて、そのことで楽しさというものが、何か底の浅いもののように思えることがある。 悲しいと言うと、人間は悲しみのわけを詮索したくなる。 それは私たちが悲しみをいやしたいと願うからなのだろう。 それと対照的に楽しさのわけを私たちは余りたずねたがらない。 楽しければそれで結構じゃないか、楽しさは長つづきするにこしたことはないのだから、出来るだけそっとしておこうというわけなのだろうか。 自分が楽しい時は、その楽しさにかまけてものを考えないし、他人が楽しそうな時は、いささかの羨望からその楽しさに無関心になる、そんな心の動きがあるような気がする。そのおかげで私たちは、楽しむということのもつ、さまざまな陰翳をとらえそこなうことがありはしないか。 うまい物を食う楽しさがある、好きな人と共にいる楽しさがある、ひとりでぼんやり時を過せるという楽しさもある、そして一篇の詩を読む楽しさがある。 それらを私たちは均質に楽しんでいるのだろうか。それらの楽しさのちがいを言葉で言い分けることは難しいにしても、少くともそこに微妙な味わいのちがいは存在するだろう。
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