79年前の現実 少年が遺した記録“戦火の日記”【バンキシャ!】
“日常の中にある戦争”を淡々と記録し続けた隆さん。どんな人だったのか──。 いとこの森本英敏さん。当時、隆さんの家で1年ほど、一緒に暮らしたことがあるという。 森本英敏さん 「物静かで聡明(そうめい)な人。いいお兄ちゃん」 強く印象に残っているという姿を、絵に描いてくれた。
森本英敏さん 「いつ見ても奥の部屋で、ランニングシャツ姿。座卓に向いて書き物してる」 体が弱かった隆さん。起きている時間のほとんどを机に向かって過ごしていたという。隆さんは、毎日の食事の内容もこと細かに記録していた。 『朝はいりまめに たいたまめ。 ひるは むぎのたいたのと おからでだいよう。 ばん おかゆに まめゆでたの すっていれた』 米が足りず、麦や豆で空腹をしのぐ毎日。それでも日記に不満を書くことはなかった。当時の隆さんの考えが、うかがえるものがある。 昭和19年、1944年11月。 「わが家の新聞」 戦地に赴いた父親に送った“近況報告”だ。アメリカ人を“ヤンキー”と呼び、こう書いていた。 『ヤンキにとどめをさす秋がやってきました。わが家もそのつもりで「カウヨリクフウ」「ホシガリハシマセン カツマデハ」「フソクハイヒマセン カツマデハ」でがんばっております』 “すべては戦争に勝つため”。当時の教育が色濃く表れていた。 そして、1945年8月15日。日本で終戦が伝えられたこの日、隆さんは日記にこう記した。 『ひるから天皇陛下おんみづからの ごほうそうといわれるので なにかいいことかとおもっていたら となりで むじょうけんこうふくとか 話している 必勝をしんじきっていたので でまとばかりおもっていたのに ニッキをかこうとしてしり なんともいへぬかなしみ 心では泣けてきた』 ◇ それから79年の歳月が流れ、今月3日。兵庫県・加古川市に、隆さんの親族が集まっていた。向かった先は、近所のお墓。そこには隆さんの名前。終戦から3年後、病気で亡くなっていた。隆さんのめい・上田紀子さん。 上田紀子さん 「若い頃に亡くなったと聞いているので、会ったことはない。すごい賢い伯父さんがいたと、母からもおばあちゃんからも聞きました」