【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(2)
ソ連兵に訴えた「学校に行きたい」 突然迎えに来た親戚
――家族ではいつ島を離れたか。 私のところは、1万3600人、大体それだけの人いたの。約半数は夜陰に乗じて島を抜け出してる。自力脱出してんです。択捉は別ですよ、遠いですから。国後とか歯舞群島とか志発、大体そうして脱出した人が多いんです。残った人はどうなったかというと、昭和22年、23年にかけて強制送還されてんですよね。 大きく分けるとそういうことですけども、私と私の弟は別なんです。多楽の場合も、ほとんどの人が夜陰に乗じて脱出してしまって、友だちもいなくなりますし、当然、学校にも行けなくなるし、遊び相手もいなくなったんです。たまたまソ連軍のナンバー2で、アレキセイって兵隊がいたんですよ。あるとき、アレキセイに学校に行きたい話をした。「学校に行きたいな」と言ったら、「ああ、そうか」「俺は11年学校行った」と。「子供は学校行かなかったら、『ガラーカポーシュタ』になるって。 母親に「どういうこと」って聞いたら、「頭がキャベツのようになる」ということなんです。そう言われて、今でもどうして連絡とれたのかなと思うんですけど、10月の中ころ、先に島を脱出した、私のおじさんたちが迎えに来てくれた。みんな夜陰に乗じて抜け出して、おじさんたちもこっそり抜け出したんですけど、白昼堂々と迎えに来てくれた。そして、私5年生と弟3年生2人だけが「学校に行くため」ということで、おじさんの船で出ることになった、島をね。 ――そして根室へ、ですか。 ええ。根室の近くですけど、隣の風蓮湖の向こうの別海村っていうとこに。そして、船に乗って、出ようとしているとき、アレキセイが「ちょっと待て」と。あれ、行ったらだめなのかなと思った。そうしたら、別の兵隊と2人で、学校から馬に乗って新しい2人掛けの机を2つ持ってきたんですよ。「向こうに行ってもないと思うから、これを持ってって使いなさい」、「学校が終わったら、また戻ってきなさいよ」と。当然、親兄弟もみんな残ってますし、まさか帰れないなんて、子供ですから思ってない。当時、夏休みや何かあったときには、根室に来て、親戚のうちに泊まって遊んで帰るってやってたから、学期末か何かあったら当然戻ってくる、と。大体それくらいのことしか考えてないし、別に寂しいとも思わないし。ですけれども、残念ながら、家族が昭和22年に強制送還されてくるまでの間、2年ちょっと、音信不通になりました。