【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(2)
終戦時、島には新しい家が多かった
――では、その屋根を上ったところから、ソ連の船が見えたということですか。 うん、もう外の屋根の上、はしご掛けて上って見たもんですよね。戦後、富山に行ったとき、よその島にいた富山の人から聞かされたのは、あの当時「多楽にはいいうちばっかりたくさんあったよね」ということなんです。ソ連軍が入ってきてから、一時避難的に逃げた、一口で言うと逃げた。みんな島から離れていって、その人は志発のソ連軍に徴用されたんでしょう。志発へ、家を解体して多楽から運んだと思うんですって。「それくらい多楽には、新しいうちがたくさんあったね」、って言ってましたね。 ――多楽の家を運び、志発島で建てたということですか。 だと思うんですよね、解体して、向こうへ持ってったんだと思う。 ――ソ連の兵士が住むためですね。 それくらい、新しいうちがたくさんあったよ、って。そう言われて考えてみると、結構新しいうちがあったんですよ。建てて何年もたたないような。裕福だったこともあるし、ちょうど時期的に建て替え時期になったんだとも思うんですけどね。 ――最初に入植した世代の建て替え時期だった。 当時の板、木造ですから、そんなに年数持つわけでもないし。比較的、当時のうちっていうのは大きいんですよね。今は、そんなうち見られない。昔のうちは部屋数も多いしね。っていうのは、集まる場所、公の集まる施設なんてないから。学校くらいですからね。催しがあると、自分のうちでやるのが多くなるんです。仕切りの戸を外すと、4つとか6つとか部屋通せる、そういううちだったですよね。
日本軍の式の最中にソ連兵が入ってきた
――8月15日の終戦はどこで知りましたか。 終戦は島におりました。今のように各戸に電話があるわけでもないですし、そのときも天気のいい日だったですから、朝から、父親たちは昆布漁に出てったんですよね。そして、夕方に帰ってきて、そういった情報を聞いたと。絶対勝つと思ってたのに負けたってなったら、船から昆布もおろす気力なくなって、浜にしばらく座ってたもんですよ。それくらい、がっくりきてたんですよね。私の父親ばっかりじゃなくて、みんなそうだったんだと思うんです。ですけど、日にちが経過するうちに、こんなことはしてられないと。「また一生懸命働いて、頑張ろうや」と、言ってる矢先ですよね、ソ連軍が入ってきた。 ――ソ連兵が入ってきて生活は変わりましたか。 変わりました、変わりました。沖に出て漁するなんていうことは、もう当然できないし。もちろん日本の軍隊もいたんです。ソ連軍が入ってきたのが、3日だって言う人もいるし、4日だって言う人もいるし、場合によっては2日だって言う人もいる。当時、カレンダーなんかたくさんないですよ。日めくりのもの、あるいは手づくりのもの、そういう時代だった。うちの父親も、3日とか言ってました。私もそうだと思っていたんですけれども、後に、日本の兵隊の隊長が書いた手記を見たら、9月の4日ってなってる。そのときに儀式をやってたんです。 どういう式をやってたかというと、月は違うけど、4日は勅諭奉戴日、1月4日の明治の軍人勅諭の日なんだと。どういう儀式かというと、軍隊で扱う武器、それの返納式。天皇陛下からお預かりしたものだからお返しするっていう、儀式をやってるところに、ソ連軍らしき者が来たっていうことの連絡が入ったんだと。 ――日本軍の部隊とソ連軍の間では衝突はなかったんですか。 なかったようですね。そういう連絡が入ったものですから、イソダさんっていう下士官クラスの人が馬で偵察に出た。警察に行ったら、そこで出くわして、イソダさんが言ったのは、「やあやあやあ、捕虜第1号になった」とかって、笑ってましたけど。その馬にソ連の隊長を乗せて、私のうちの前をずっと行った。それで、「そういう儀式の最中だった」って言ってました。ところが、お互いに軍人だから、儀式の終わるまで、待てって言ったのかどうなのか知りませんが、待ってたと。敗戦の兵隊であっても、勝った者であっても、何かがあるんですね、軍隊として。きちっとして見てた。終わるまで待ってた、と。 ――その後は、ソ連軍は島に常駐ですか。 私のいた限りではおりました。後で聞くと、最初に上陸してきた兵隊と、また入れ替わって違う兵隊が来たとか。学校の周辺の人に聞いたら、先生なんかはいち早く(島を)出たと。昔、学校の校門のところに奉安殿っていうのがあるんですよ。この中に教育勅語とか天皇陛下のお写真が入ってんです。登校するときも下校するときも、必ず最敬礼をしなければ通られないところだった。大事なものだったんですね。ですから、それをいち早く持ち出したらしいです。どういうふうにして、どこの船で出たかは定かじゃないんですけれども、だんだんだんだん1軒逃げ、2軒逃げ、少なくなった。 日本の兵隊もいましたけれども、何日かしてから、私のうちの前もずっと連行されていった。後に聞くと、「うちに帰すということだから、多分、出身地の三重県に帰れると思っていたんだ」と言ってました。当時そういう兵隊さんたちとも顔なじみですから、手を振って送ってあげたし、兵隊さんたちも私たちに手を振って行ったんです。ところが、シベリアに連れられていった。3年も5年もそこで抑留されてたということですね。