監督指示を無視「投げているのは俺や」 甲子園Vへ“危険な賭け”…最悪の結末に謝罪
牛島和彦氏は高3夏、準決勝で敗退…9回無死一、二塁で出たサインに従わなかった
元中日、ロッテ投手の牛島和彦氏(野球評論家)は浪商(大阪)時代に春2回、夏1回、甲子園に出場した。夏は3年時の1979年選抜準優勝に続いて出場。最後は準決勝で涙をのんだが、この時も牛島氏は“伝説”を残している。選抜決勝の箕島(和歌山)戦では浪商・広瀬吉治監督の敬遠指令を「投げているのは俺や!」と拒否したが、0-2で敗れた夏の準決勝・池田(徳島)戦でも土壇場の9回に監督の指示に反抗。送りバントのサインに知らんぷりを決め込んだ。 【実際の写真】“細身のイケメン右腕”と話題…高校時代の牛島氏 夏の甲子園1回戦で、浪商は上尾(埼玉)に延長11回3-2で勝利。9回2死一塁で牛島氏が、相手エース・仁村徹投手(元中日、ロッテ、現・中日球団編成統括)から同点2ランを放った。これで勢いづき、2回戦の倉敷商(岡山)は4-0。3回戦の広島商(広島)には9-1。上尾戦で12三振を奪った牛島氏も2回戦、3回戦でいずれも11奪三振と快投を続けた。 10-0で大勝した準々決勝・比叡山(滋賀)は「6回で8奪三振くらいだったと思いますが、そこで監督が来年のために後輩を放らせてやってくれというから代わりました。4試合連続2桁三振がかかっていたのは知っていたけど、別にいいやと思ってね」。牛島氏は選抜決勝で1点ビハインドの8回2死二塁でベンチから敬遠指令を拒否して勝負した結果、手痛い追加点を与え、試合後に監督に謝罪したが、比叡山戦での交代は、それも踏まえてのことでもあった。 「選抜の時に敬遠しろというのに勝負しましたからね。どうぞ後輩を投げさせてやってくださいってなったんです」と牛島氏は話したが、この後、夏の甲子園でもまた監督指令に逆らうことになるとは、その時は思ってもいなかっただろう。それは準決勝の池田戦で起きた。「池田の橋川(正人投手)は軟投派。そういうタイプにもウチは弱い。案の定0点でしたよね」。問題のシーンは2点を追う浪商の9回裏の攻撃だった。 この回先頭の3番・香川伸行捕手(元南海)が四球を選び、4番・山本昭良内野手(元南海)が三遊間を破るヒットで続き無死一、二塁。ここで打席に入る5番の牛島氏にベンチから送りバントのサインが出たが「知らんぷりしました」という。見かねて広瀬監督は牛島氏を呼び寄せた。「『打ちたいのか』と言われたので『打ちたいです』と答えました」。結果は最悪の遊ゴロ併殺打。2死三塁となって6番・川端新也内野手が投ゴロに倒れて浪商は敗れた。 牛島氏はこう話す。「僕の勝手な言い訳ですけど、あそこでバントして(その後に)2-2で延長戦になるのが嫌だったんです。それで勝っても球数が増えて、また決勝でボコボコに打たれるのかと思った。相手は春にボコボコにされた箕島に決まっていたし、だから、あそこで僕が打って一気に(9回で)決着をつけたいとの思いがあったんです。あの時1点差だったらバントしたと思いますよ。でも2点差だったんでね、2人かえっても同点なので……」。