ラストシーンの意味は? 終盤に込められた狙いとは? 映画『トラップ』評価レビュー。M・ナイト・シャマラン最新作を徹底考察
クーパー/ブッチャーの分裂がたどる結末
どうやらシャマランも、子育てを放棄し、自宅を抵当に入れて映画作りにのめり込む自らの怪物性については、まるで自覚がないわけではないらしい。しかし、怪物的なのは半分だけであり、残りの半分はクーパー同様に子煩悩な父親の顔なのだ。だから許してね、というわけだ。 では父は、単に娘のアイディアを臆面もなく盗んだ上で、自己弁護の言い訳として都合よく再利用したのだろうか。もはやごく一部のシャマラニアン以外にはどうでも良い議論に突入していることを承知で言えば、そうではないだろう。 怪物をめぐる発言の後、母の亡霊は、「あなたは私の息子よ」と告げ、さらに「あなたが怪物を止めていることはいいことよ」「最後にもう一度顔を見せてちょうだい」「私はあなたを受け入れます I accept you」「もっと近くに来なさい」と矢継ぎ早に語りかける。 ここで、クーパー/ブッチャーをもう一度息子として「受け入れる」と宣言する幻の母の言葉は、ライヴ中のレディ・レイヴン=サレカが、自らを捨てた劇中での父を解放し許すまでの経緯を語る、唯一の長尺にわたるMCの後で歌ったオリジナル楽曲のタイトル“I release you”と明確な対照を成している。※1 シャマランは、親離れを志向する娘二人からの父への言葉をそれぞれ引きながら、その含意、あるいは表現それ自体を反転させ、母から息子への言葉として再構成した。単にパクるよりも数段気持ち悪い改変になっているようにも思えなくはないが、少なくともこうした応答は、娘たちを一人前の表現者として認めた父による真摯かつ意地の悪い、いかにも彼らしいひねくれた返歌のように思えてならない。※2 さて、これらの言葉を耳にしたハートネットは、左右にふらつきながらも母の要望通り彼女の待つ扉の方へと少しずつ歩みを進める。言うまでもなくこのアクションには、麻酔の効果とクーパー/ブッチャー間の葛藤が重ねられていよう。ここまで左右の対立に伴走してきたわれわれには明らかなように、「怪物を止める」様子を褒められ、扉に向かってはっきりと歩みを進めるハートネットの左半身を、カメラは最後にもう一度左側から記録する。ついに、クーパーはブッチャーに勝利したのだろうか? もちろん、母親の姿や彼女からの言葉はいずれも幻に過ぎなかった。麻酔銃を撃たれて幻覚から覚めた彼は、束の間抵抗するもFBIと警察に捕らえられる。これ以降の彼の振る舞いもまた、左右の対立を踏まえることで興味深い側面を浮き彫りにさせる。 --------------------------------------- ※1 同曲を歌い出す直前にレディ・レイヴンは観客に向かい、「あなたも恨んでいる相手を許せたらスマートフォンの灯りをつけて」と語りかける。娘ライリーを含めた観客たちのほとんどがライトを灯す中、父は携帯電話を手に取ることすらなく仏頂面でステージを見つめ続けていた。恐ろしいことに、彼は妻を許せないが母に許されたい男なのだ。 ※2 こうした家族との関係までを含んだ広義の自伝的要素について考える上では、同様に本作でシャマランがなぜレディ・レイヴンの叔父としてカメオ出演を果たしているのかを考えることも重要だろう。 「家族の映画三部作(多分)完結 M・ナイト・シャマラン『トラップ』」 『紙の類』25th,Nov.2024 でも指摘される通り、自己資本での制作費捻出と娘たちの積極的な起用はいずれもシャマランの家族を大きなリスクに晒してきたと言えるが、本作でレディ・レイヴンの「身に危険が及ぶきっかけとなる決定を下すのは、カメオ出演しているシャマラン自身である」。また彼は、そのレディ・レイヴンを演じるサレカを「ファイナルガールとして起用することで、「父シャマランの決定によって娘や家族に困難が降りかかることがあるかもしれないが、自らの力でその状況を打破する(してほしい)」という構図」を、物語のレベルとメタレベルで「二重に作り上げ」ている。この二重性は結末部の演出にも認められるだろう。