『逃げ上手の若君』武家に生まれた瘴奸はなぜ身を落としたのか? 南北朝時代を牽引した「悪党」とは?
TVアニメ『逃げ上手の若君』に時行率いる逃若党の敵として登場する瘴奸。彼は元々武家の生まれだったが、今や悪逆非道な人物になってしまった。笑顔で逃げ続ける時行に「仏」の姿を見出した彼は、なぜ賊のようになってしまったのだろうか。そこには鎌倉末期の厳しい状況があった。 ■意味合いが少し異なる「悪党」 「悪党」とは一般的に山賊、海賊、強盗といった、社会規範を逸脱して罪を犯すいわゆる「わるいやつ」を意味する言葉だ。北条時行の先祖で名執権と名高い鎌倉幕府3代執権・北条泰時(1183~1142)が貞永元年(1232)に定めたいわゆる「御成敗式目」で逮捕の対象とした「悪党」もこちらの意味合いで用いられている。 鎌倉時代の末期から活発に活動するようになった者たちを示す「悪党」はそれとはやや様相が異なっており、幕府や荘園領主である寺社、貴族といった上位権力がその意に沿わない者を指弾する際のレッテルとして用いた言葉である。荘園領主から在地の管理を任された荘官や、幕府に任命されて現地支配を行う地頭はしばしば武装して徒党を組んで領主と対立したが、僧侶も神人も武士も荘管も、権威に盾突けばすなわち「悪党」だった。 鎌倉時代の相続は惣領である嫡子が土地の大半を受け継ぎ、残りを庶子が分配する分割相続が基本だった。このスタイルは新たな土地を開墾したり、恩賞として与えられた所領が得られればさらなる発展が期待できるが、そうでなければ子孫が受け継ぐ土地は尻すぼみにどんどん小さくなっていく。鎌倉時代の後期になると政権も安定して所領拡大のきっかけとなる合戦もほとんどなくなっていたし、防衛戦だった元との戦いも持ち出し一方だったため、新たな所領を得る機会にはならなかった。 そうした事情もあって鎌倉時代の末期になると単独相続が主流となり、土地財産は惣領として指名された嫡子のもとに一本化されていった。『逃げ上手の若君』の作中で描かれた、武士でありながら庶子だったために悪党に身を落とさざるをえなかった瘴奸の境遇は当時の社会ではごくありふれたケースだったのだ。 土地を財産基盤としない者たちの中からは、このころから発達した流通業や貸金業に活路を見出して富を蓄える者も現れた。中世は自力救済の社会であり、自らの権利や安全を保障する基本は武力である。ゆえに彼らは武装して集団化し、その力で荘園領主に対抗したり、他人の領地を横領したりするようになる。 こうした「悪党」の活動は特に荘園が多く経済活動も盛んだった西国で活発化した。やがて武士の中からも流通の要所を拠点として活動する名和氏や赤松氏、楠木氏といった者たちが現れて新しい時代を牽引する原動力となっていく。「悪党」は、上位権力に対する在地からのムーブメントであり、社会構造が大きく変容していく南北朝時代を象徴する存在だったのだ。
遠藤明子