民主主義に合わない「日本人の国民性」
◇総花的な政策が、かえって選挙民への大きな負荷に 一方、日本には四季があり、多くの自然災害を経験してきたため、「感覚」が発達しているとよく指摘されます。また、日本は周りの国から隔離された島国であり、狭い居住区域に密集して住んでいるため、人間関係に敏感であり、「他の人にどうみられているかが行動基準になっている」ともいわれます。 言い換えれば、自分の生活圏の人間関係が何より重要であり、それ以外では互いに迷惑をかけない相互不可侵の人間関係を構築しています。つまり、同質性の高い狭い世界で受け入れられることで、安心・安定・安全を得ているのです。 この「同質性の高さ」は、集団行動などでは良い面を発揮しますが、そこに異質なものが入ってくると排他的になるというデメリットがあります。自分たちと異なる意見を排除してしまうと、理想的な民主主義に必要な意見の多様性は担保できません。 また、排除までいかなくとも、人間関係で荒波を立てず、他人に見られているという圧力を優先して多数派の意見に合わせてしまう傾向もまた「日本人の国民性」です。ゆえに議論がなかなか深まらないという弱点があります。 民主主義で全会一致にならないときには多数決が行われます。民主主義が機能して、政策論議が活発になされ、その結果、多数の人がよいと思う意見に集約されれば、不利益を被る人が出たとしても社会を大きく変える政策が採用されることがあります。 しかしながら、日本では政治家も「日本人の国民性」を身に着けており、選挙民に対しては対立や軋轢を避け、腫れ物を扱うように対処しています。税負担などの耳の痛い話には触れず、給付などの耳障りよい話を強調するのが典型的です。政治公約も薄く国民全体の利益になるような総花的なものが多くなっていきます。 総花的なのは与党だけでなく野党も同じで、実は大きな枠で見ると政策にそこまで際立った違いはありません。日本共産党においても、党の綱領では、最終的には社会主義的な変革が掲げているものの、選挙では政治的に中道の福祉国家的な政策を打ち出しています。 一方の諸外国では、成長、分配、環境などのどれか1つに力点を置いた政策を掲げた政党が存在したり、国民の特定の階層の利益を優先する政策を掲げたりする政党が存在しますが、日本政治は国民全体へ配慮する国民性をもっており、政治家はその地位にふさわしい行動が求められるために、どの政党も似たような総花的な政策を掲げがちになると考えられます。 また、政策が総花的な場合には、すべての政策の内容を理解することが難しくなり、これらの政策が果たして実行可能なのか、実行できたとして総合的な帰結がどうなるかを予想することが難しくなります。 総花的な政策についての判断は、選挙民にとって大きな負荷となるのです。このような場合に、選挙民が選挙に行かなかったり、政策以外の事柄(スキャンダルなど)を目安に投票するのだと思われます。