豊臣家は本当に滅びなければならなかったのか?「徳川に徹底的に臣従していたら」「秀頼自ら大坂城を出ていれば」…本郷和人が考えた現実的な<生き延びる道>
◆豊臣家が生き延びられた可能性について考える そこで、そのままでは歴史研究にできないのを前提として、豊臣家が生き延びられた可能性について、考えていきましょう。 大坂の陣が始まる時点での、豊臣家の実力はどんなものだったか。挙げていきます。 (1)天下人、秀吉の正統である (2)当時の第一の先進地帯、大坂を本拠とする (3)難攻不落の大坂城を居城とする (4)領地は65万石(前田、島津につぐ全国第三位) (5)大坂の陣を戦うだけの備蓄がある うーん、これはもう、数え役満ですね…。 いや、冗談はおいておくとして、歴史的に見て、権力というものは、前代の権力を徹底的に潰しておきたいものなのです。でも、いろいろと面倒なことが作用して、完全に存在を滅することができない場合には残しておく、ということですね。 情実が絡むことは・・・あるのかな? 秀吉が清洲会議のある意味主役だった三法師ぎみを、岐阜13万石の大名・織田秀信として生かしておいたのは、それでしょうか。
◆生き延びるための道 その1 あらためて、豊臣家が生き延びるための道について考えると、秀頼は「(1)天下人、秀吉の正統である」に該当します。だから徳川としては、地上から姿を消してほしい存在ではある。 となれば、秀頼が家康の情実に訴え、織田秀信のように生き残るためには、先ずは(1)の要素を薄めること、つまり徹底的な臣従をする。臣従のパフォーマンスをみなの眼前でくり返す。それが何より必要です。 豊臣家がその線で行く、つまり何が何でも生き残るという路線を選択するならば、「(2)当時の第一の先進地帯、大坂を本拠とする」と「(3)難攻不落の大坂城を居城とする」はかなりまずい。 自ら大坂城を出て、江戸の監視が行き届く関東の川越とか、忍とか、関宿あたりに移る。そうだ、伝統の町、鎌倉がいいかもしれません。
◆生き延びるための道 その2 「(4)領地は65万石(前田、島津につぐ全国第三位)」は明らかに多すぎます。思い切って領地を減らし、家臣もリストラする。 鎌倉で3万石ではいかがでしょうか。堅固な城は築けませんが、戦争が起きたらどうせ滅亡するのですから、館でよい。 「(5)大坂の陣を戦うだけの備蓄がある」ですが、幕府に献上したり、鎌倉の社寺の復興の手伝いに使いましょう。 これではメンツが立たない、というのであれば、特に若手研究者などがよくとりあげる「朝廷官職」で補えば良いのではないでしょうか。 織田秀信は中納言でした。おじいさんの信長の極官が右大臣で、孫は中納言。このバランスで行くなら、秀頼は内大臣でしょうか。 千姫との間に男子をもうけ、徳川家の血も受けついだ鎌倉内府家。所領は3万石。仕事としては、ゆくゆくは高家の筆頭となって、儀礼を司る。 こんな感じであれば、豊臣家も生き延びられたのかな…などと考えてみましたが、いかがでしょうか。
本郷和人
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