豊臣家は本当に滅びなければならなかったのか?「徳川に徹底的に臣従していたら」「秀頼自ら大坂城を出ていれば」…本郷和人が考えた現実的な<生き延びる道>
松本潤さん演じる徳川家康がいかにして天下統一を成し遂げたのか、古沢良太さんの脚本で描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第46話は「大坂の陣」。豊臣家復活を願う方広寺の鐘に、自らを呪う言葉が刻まれたと聞いた家康。茶々(北川景子さん)が徳川に従い、人質として江戸に来ることを要求するが、大野治長(修理・玉山鉄二)らは激怒し――といった話が展開しました。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。今回は「生き延びる道」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし! 関ヶ原時点で59歳だった家康。豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは? * * * * * * * ◆ネットに記事を配信している理由 いよいよ徳川家康にとって、生涯最後の戦いとなる大坂の陣にドラマは突入しました。 一方、この連載で天下人となった後の徳川家と、豊臣秀頼の関係を考察したところ、記事を読んで下さった読者から興味深い意見が寄せられました。 それは「家康は別に、豊臣家を滅ぼすつもりはなかったんじゃないの?」というもの。この意見への反応を見る限り、似た考えを持つ人は数多くいらっしゃるようです。 正直、これは虚を突かれた。でも勉強になった。ぼくがこの連載をインターネットに配信しているのは、こうしたダイレクトな反応にとても興味を持っているからなのです。 なお、歴史人物の行動をトレースすることは、歴史研究者の仕事である。けれどその時の彼や彼女の心情にまでは、歴史研究者は踏み込めない。ぼくは折に触れて、そう断っています。 以上を踏まえて大坂の陣について。
◆大坂の陣における家康の心象 大坂の陣において、家康は「これで徳川は安泰だ!」と嬉々として豊臣家を潰したのか。いや、「秀吉どの、すまん。貴殿との最後の約束、秀頼どのの命は助ける、は果たせなんだわ」と内心では涙していたのか。 そこはやはり分からないのです。もしも「大坂落城時の徳川家康の心象について」なんて論文を研究雑誌に投稿したら、「うちではこういうのは扱っていないので・・・」と返却されることでしょう。 けれども、歴史を考察する醍醐味というものは、それと別のものとしてあるわけで、その分野で活躍されているのが歴史小説家の皆さんです。 ですから、「司馬遼太郎の歴史小説なんてウソだらけ」などとフィクションを軽侮する風潮に接すると、ぼくは頭を抱えます。 研究とフィクションは野球でいうと外野と内野というふうに、守備範囲が違うもの。歴史認識・歴史考察という意味では同じ作業なのです。もしも司馬遼太郎先生が史料の読解を掌中に入れ、歴史学研究の道を歩んだら、偉大な学者になられていたことでしょう。
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