富士山と宗教(2) 御師と富士講の関係とは? 歴史を紡ぐ御師家「筒屋」
座敷テーブルの上に江戸期の木版
都留の生まれという恵美子さん。御師の家に嫁ぎ筒屋を切り盛りして45年という。「嫁ぐまでは富士講のこともよく知りませんでした。おばあちゃんから、富士講の人たちに出す御師料理を学び、神主をしていたおじいちゃんからもいろいろと教えてもらって、だんだん富士講のことがわかるようになりました。富士講の人たちは皆、いい人ばかりなので苦になることはありませんでした。料理がおいしいと褒められて嬉しかったですね。大勢の時は、親戚なども手伝いにきて、和気あいあいとやってきました」と話す。御師料理とは、てんぷらや煮魚などを中心とした料理らしい。 座敷のテーブルの上に木版が置かれていた。刷ったものを見せていただく。「木版は江戸時代のものです。木版を刷ったものを牛玉(ごおう)と言います。うちには他にも木版があります」と恵美子さん。富士山と記された山の頂上に阿弥陀三尊が現れ、山の麓で猿が手を合わせて拝んでいる。富士山頂が極楽浄土であることを示したものだ。こうした木版はかつて御師の家々にあり、刷ったものを富士山牛玉と呼び、信者はお札として身につけた。
座敷を見上げると木板が掲げられており、「修繕寄附金講社名」として「東京府下豊多摩郡杉並村 惣講社」など5つの講社名が並び、最後に大正二年一月吉日と記されていた。大正時代、家屋などの修繕のために寄付をした講社を示したものであろう。屋敷家屋の奥には、渡り廊下続きの別棟のご神前がある。木花開耶姫(このはなさくやひめ)が祀られているという。宿泊する信者は、ご神前で祈祷を行うのだ。歴史に彩られた筒屋。家系図があり、写真に撮ったものを額に入れて座敷に飾っている。貴重な古文書や歴史資料も見つかっており、多くは市の博物館などで展示されている。
信者から観光客へ? 歴史文化遺産になりつつある御師の家
「昔は(講社が)東京や埼玉など各地にあったけれど、講元さんが亡くなると終わってしまう。新しい講を作る人もいるけれど……」と恵美子さんは少し寂しそうだ。 全盛期には86軒もの御師の家があった上吉田だが、今は13軒ほど。しかも、筒屋のように実際に富士講信者を受け入れている御師の家は、今は数軒しかない。筒屋では富士講信者のほか、修験道者や僧侶、八海めぐりの人などが泊まるが、一般のお客も受け入れており、御師の家の中には通常の宿泊施設として営んでいる家もある。 ほとんどの御師家は、文化財的に昔の家を残しつつ、住人が暮らす「民家」になっているようだ。かつて御師は神職が務め、夏は信者の寝泊りの場を提供し、その他のシーズンは信者の家を訪問していた。今も神職が御師を務め、富士講信者が毎夏訪れる筒屋でさえ、御師が信者の家を訪問して回ることは、もうないという。 「おじいちゃんはお札や土産品をもって信者さんを回っていましたね。信者さん回りはおじいちゃんまでで、その後はしていません」と恵美子さん。