明治初期、福島県県北に英国の生糸買い付け商人 福島大の小松教授が外務省公文書で確認
外国人が日本国内を自由に移動できなかった明治初期、生糸の一大産地だった福島県の県北地方に英国商人が生糸の買い付けに来たことをうかがわせる記録を、福島大人間発達文化学類の小松賢司教授が外務省外交史料館の公文書で確認した。修好通商条約が明治後期に撤廃されるまでは外国商人が産地で生糸を仕入れる行為は禁じられており、政府や英領事館を巻き込む騒動となる経過が記されていたという。県北産生糸への海外の高い関心を裏付ける史料とみて、小松教授は史料集などとしての公開を目指す。 公文書は「横浜居留英吉利国人『フープル』外一名無免状福島県下旅行並同人密商嫌疑ニテ取押タル金員ノ利子及差銀償却一件」。主に毛筆で書かれ、英文の交じった書類約500枚を一冊に収めている。外務省と福島、神奈川両県、神奈川裁判所、法務省、太政大臣、英国領事・公使などの間で交わされた。外務卿寺島宗則、太政大臣三条実美、英国公使パークス、通訳アーネストサトーら歴史的な人物の名も登場する。
公文書によると、1872(明治5)年6月、横浜居留地にある英国商社フーパーブラザーズの社員チャールズ・フーパーが英国人番頭らを伴い、新田村(現伊達市梁川町)で豪農・河内弥太郎に生糸購入を申し込んだ。弥太郎の案内で飯坂温泉の角屋(中山)惣右衛門を訪ね、2週間の滞在を申し出た。外国人の長居を不審に感じた上飯坂村(現福島市)の役人が理由を尋ねたると、一行はパンや肉、酒が東京から届くのを待つためだと答えた。 一行は当時、居留地と外を往来するのに必要だった許可証を持っていなかったため、横浜に強制的に戻された。チャールズは約1カ月後に一人で飯坂温泉を再訪しようとしたが、福島町(現福島市)で生糸の密商の疑いで福島県の役人から尋問され、横浜に送還された。裁判所などで彼らの行いが密商に当たるかどうか取り調べが行われたが、密商とは認定されなかった。 明治初期の福島県は既に国内有数の生糸産地だった。小松教授によると、外国商人が来た記録は確認されていないという。小松教授は一連の騒動を巡る文書を「当時の外国商人の行動には不明点が多い。史料を深く分析することで外国商人と福島、日本の関係の新たな一面が明らかになるかもしれない」と評価している。
■横浜で貿易会社設立 英国商社社員チャールズ チャールズは1867(慶応3)年に来日、兄と共に横浜の外国人居留地で貿易会社を設立した。1888(明治21)年に神戸市に移り、1896年に64歳で死去した。現在は神戸市外国人墓地に墓碑がある。