メッシ、クリロナを生んだ、2025年は「サッカー革命」100周年(1)W杯優勝国も使った「ピラミッド・システム」と妥協の産物として生まれた「3人制」
■中途半端で「魅力的」なルール
1863年12月に最終的に決められたルールが初めて改定されたのは、2年数か月後の1886年2月のことだった。長時間の会議の末、FAは「オフサイドルール」を大幅に緩和した。少なくとも3人の相手側選手が自分と相手ゴールラインの間にいれば、「アウトオブプレー」にはならないことになったのである。すなわち制限つきながら、前方の味方への「パス」が許されることになったのである。 それまでのサッカーでは、ひたすらドリブルで進むか、大きく蹴って自分か、自分より後方にいる選手がボールを追うという攻撃方法しかなかった。 ところが、ロンドンの「FA」と違うルールでプレーしていたシェフィールドでは、オフサイドなしでプレーしていた。FAの事務総長で、1863年のルール起草者でもあったエベニーザー・コッブ・モーリーは、シェフィールドのルールを気に入り、FAでもオフサイドをなくそうと主張した。しかしパブリックスクール時代から慣れ親しんだ「オフサイド」に愛着を持つ理事も多く、「妥協の産物」として「3人制オフサイド」が誕生したのである。 これが第一の「革命」だった。ラグビー・スタイルのフットボールと大きな違いのなかったサッカーを個性あるスポーツとして確立させたのは、「制限付きだが前にパスしていい」という、まことに中途半端な、それでいて魅力的なルールだった。
■イングランドの「背番号」の意味
これによってさまざまな戦術が工夫され、最終的に1880年代には「ピラミッド・システム」という選手の配置が定着した。GKの前に「フルバック」2人、「ハーフバック」3人、そして「フォワード」が5人並ぶ。今日的に表現すれば「2-3-5システム」だが、FW側から見ればGKを頂点としたピラミッドに見えることからこう呼ばれるようになった。そしてこの形がサッカーの基本となり、半世紀にわたって使われたため、「クラシック・システム」とも呼ばれることになる。 サッカーが英国から世界に広まったのは、まさにこの時期、1880年代から20世紀の初頭にかけてだった。当然、このシステムによるプレーが伝えられ、世界の多くの国にとっては「ピラミッド・システム」がサッカーのスタートであり、サッカーそのものだった。 蛇足だが、イングランドの伝統的な背番号も、このシステムに対応してつけられた。GKが1番、両「フルバック」は右が2番、左が3番、「ハーフバック」は右から4番、5番、6番、そして「フォワード」も右から7~11番という形である。 そして驚くことに、「革命後」の1930年代に入っても、世界の多くの国では「ピラミッド」は変わることなく続けられていたのである。1924年のパリ大会と1928年アムステルダム大会でオリンピック連覇(その間に「革命」は起こっていたのだが…)を成し遂げ、1930年の第1回ワールドカップでも優勝を飾ったウルグアイは、ワールドカップ優勝まで「ピラミッド」で戦っていた。
大住良之
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