「実は私、工業デザイナーなんです」稲川淳二(77)コンパ屋と呼ばれた学生時代経て活躍も…芸能界へ不思議な転身を果たし
■アメ車や建物に憧れてデザイナーを目指すように ── 稲川さんが、工業デザインに興味をもったきっかけは? 稲川さん:私は小さいころから絵を描くのが大好きだったんです。もちろん、怪談も好きでしたが(笑)。戦後すぐに渋谷で生まれたのですが、渋谷や代々木はワシントンハイツ(戦後の占領時に米軍が有していた、兵舎・家族用居住宿舎などからなる軍用地の名称)があって、アメリカの車や建物をよく見かけました。物のない時代ですし、もうそれは憧れですよね。憧れているんだから、作るしかないじゃないですか。それで、デザイナーになろうと、小さいときから考えていたんです。
── 幼少期の思い出からですか。そして、桑沢デザイン研究所インダストリアル科へ。 稲川さん:学生時代は、勉強の合間に人を集めてよくパーティーを開いていたので、みんなから「コンパ屋」って呼ばれ、広く知られていました。違う学校の学生と、六本木の絨毯バー(当時流行していた、靴を脱いで入る酒場)を借りてパーティーを開いたこともあります。芸能人もけっこう来ていて、ごく自然に接していました。
■舞台美術の仕事からなぜかテレビの表舞台へ ── 学生時代から顔が広かったんですね。シティボーイをおう歌しながら、工業デザインを勉強。卒業後は? 稲川さん:私はもともと、舞台美術をやりたかったんです。工業デザイナーは図面を引くのは得意だけど、レタリングなどができる人は少ない。でも、私はレタリングも絵も得意だから、その能力が必要とされる舞台のセット作りがいいなと。それで、舞台関係のプロダクションに行って、舞台セット作りを始めたら、舞台に出ることになっちゃったんです。というのも、舞台セットをやる人間は公演中も舞台袖にいるんです。舞台転換中は、間を持たせないといけないから、舞台に出て幕間に演じたりといろいろやっていたら、ウケちゃって。素人みたいなものですが、評判よかったので続けました。まぁ、出るのも、嫌いじゃなかったんでしょう(笑)。