「実は私、工業デザイナーなんです」稲川淳二(77)コンパ屋と呼ばれた学生時代経て活躍も…芸能界へ不思議な転身を果たし
── セットを作るはずの美術さんが表舞台へ。そのままテレビへ? 稲川さん:いえ、舞台美術をやりながら、劇団から頼まれて、マネージャー業もやりました。そこの劇団には子役さんがたくさんいたので、保護者からお子さんを預かって、テレビ局へ行って挨拶なんかして、また集合・解散場所に戻ってくる、というのをやったんです。預かってすぐに保護者が解散してしまうのも寂しいので、彼らを誘ってデパート最上階のレストランに行ったら、みんな喜んでくれました。「今後もぜひ、稲川さんでよろしく」と言われて、そのうち大人のタレントさんのマネージャーも兼ねるようになりました。気づいたらだんだんと深みにハマって…。
── 稲川さんに、いろんな裏方経験があるとは知りませんでした。 稲川さん:その流れで同年代のタレントさんについて、子ども向け番組のオーディションにマネージャー代わりで行ったんです。すると、現場で知り合いに会い、その番組のオーディションに出てみないかと言われました。子どもにもわかりやすくニュースを伝える番組で、ためしに出てみたら、子どもたちが大笑いして喜んじゃいました。プロデューサーから「稲川さん、スケジュールどうなっています?」とすぐに聞かれて、そこから続けてテレビに出るようになりました。
── 当時、テレビではコメンテーターやリアクション芸など幅広く活躍。そうしたタレント活動と工業デザインの仕事はどうやって両立していたのですか? 稲川さん:工業デザインはそんなに急ぐものでもなく、わりと時間も柔軟に対応できたので自分でスケジュールを組めたんです。いろんな取引先の担当者のお子さんが、ちょうど視聴者くらいの年代でした。子ども向け番組に出ると話が弾んで、デザインの仕事につながることも多かったんです。
── 55歳以降、怪談の仕事に集中されてからは、デザインの仕事はどのように? 稲川さん:怪談一本に絞ってからは、デザインの仕事はしていません。本当のこというと、今でもデザインやものづくりが大好きなんですよ。だから、デザインをやり出すと、たぶん怪談ができなくなってしまいます。ものづくりは代わりがいるけど、怪談は他の人には任せられないので、やはり私は怪談をやらなくちゃと思います。今は、障がい者アーティスト対象の絵画作品コンテスト「稲川芸術祭」に協力し、応援する立場でデザインや絵にかかわっています。