失ったはずの腕や脚が痛む「幻肢痛」。治療方法は、脳を“だます”こと?
事故や病気で手足を失った人の多くが、ないはずの手足が痛む「幻肢痛(げんしつう)」に悩まされているといいます。 幻肢痛のメカニズムはいまだ解明されていません。 通常、私たちが右手親指を動かそうとするとき、脳から「右手親指を動かせ」と指令が出て、筋肉に伝わることで、右手親指が動きます。そして、筋肉が動くと、脳に「動かしたよ」とフィードバックが送られ、脳は「処理が完了した」と認識します。 しかし、体の一部を失うと、脳から送られた指令に対してフィードバックがないため、処理が完了せず、脳がエラーを起こします。 このエラーが“痛み”として出力され、ないはずの場所が痛むという不思議な現象が起きるのではないかと考えられています。 幻肢痛の感じ方は人それぞれで、呼吸もできないほどの痛みを感じたり、数日間にわたり眠れなくなったりする人もいるといいます。また、特効薬もありません。 そんな中、幻肢痛に苦しんだ経験のある猪俣一則(いのまた・かずのり)さんは、VR技術を応用した「幻肢痛緩和セラピーシステム」を開発するため、2015年に株式会社KIDSを立ち上げました。 現在、痛みからほとんど解放されたという猪俣さんに、幻肢痛とはどのようなものか、そして脳をだますことで痛みを緩和するというユニークな治療法についてお話を伺いました。
「どうせ分かってもらえないだろう」と誰にも言えなかった
――まずは猪俣さんのご経歴から教えてください。いつ頃から幻肢痛に悩まされているのでしょうか? 猪俣さん(以下、敬称略):17歳の時に事故で、右腕の動きをつかさどる5本の神経が全てちぎれてしまいました。一時期は右腕だけでなく、左脚も切断しなくてはならないとも言われていましたが、手術によりなんとか切断は免れました。 右腕が動かなくなってしまったのですが、肋骨の裏側を走る神経を右腕に移植するという手術と、リハビリのかいもあって、単純な動きであれば、呼吸で右腕を動かせるようにはなりました。 ただ、ちぎれてしまった神経は元には戻らないため、右腕の感覚はありません。 感覚がないはずの右腕に猛烈な痛みを感じるようになったのは、事故後間もなくです。人間は通常、痛みを感じると、患部や周辺をさすることで痛みを紛らわせようとしますが、どこを触っても「痛みのもとはここだ!」という感覚にならなかったんです。 何もない、宙に浮いている部分に痛みがあるという感じでした。 当時は幻肢痛という言葉も知りませんでしたし、「この状態を理解してもらうのは難しい。命が助かったのだから、後遺症くらいは我慢しなくては……」と、痛みをなんとかしてほしいと訴える気持ちにも至らなかったんです。 ――幻肢痛という言葉にたどり着いたのはいつですか? 猪俣:右腕の機能を失ってしまったので、その代わりではないですが、デジタル技術を深く身に付けようと大学に進学し、デザインや工学について学んでいました。 その後、留学したイギリスで出会った友人から「その痛みは幻肢痛ではないか?」と教えてもらったんです。 この痛みに名前があるのなら、治療法もあるはずだと調べ始め、薬、手術のほかに治療法の一つといわれている「鏡療法(ミラーセラピー)」を知りました。 鏡療法とは、体の中心に鏡を立て、残っている方の肢(手や足のこと)を鏡に映します。すると、左右反転した像が映るので、それを自分の頭の中にある幻肢と重ね合わせるんです。 そのまま、肢を動かすと鏡像も動くので、「失ったはずの手や足がちゃんと動いている」と、視覚的に脳をだます療法です。 これで脳が「肢は動いているから処理に異常なし!」と、だまされてしまうんですよ。神経からのフィードバックがないのを、視覚で補うという感じです。これによりエラーが出なくなって、痛みが緩和します。 鏡療法はこれを繰り返すことで、脳の処理方法を上書き更新していくようなリハビリです。 ――とても不思議に感じます! 人間が視覚から得ている情報ってとても多いんですね。実際に猪俣さんは鏡療法を試されたのでしょうか? 猪俣:はい。ただ、僕はあまり効果を感じられませんでした。 というのも、「鏡療法によって幻肢痛が軽減された」という論文は発表されていますが、マニュアルは存在せず、医師や理学療法士、作業療法士を含むセラピストでも、実務経験がある人の方が少ない状況でした。 鏡1枚と段ボールさえあれば訓練道具は作れるので、多くのリハビリ施設に置いてはいるんですけどね。 もう1点、効果を感じなかった理由があって、鏡は左右対称にしか映し出せませんが、幻肢の形って人それぞれなんです。 私は幻肢が宙に浮いている感じで、そのほかにも極端に短い人、指がない人、胃の中に幻肢が入ってしまっているという感覚の人もいるんです。 そもそも鏡に額があれば、それだけで脳が「これは鏡だ」と認識してしまい、療法が通用しなくなってしまいます。ただ、工夫すれば効果は期待できるのではないかと。 ――なるほど……。簡単にはだまされてくれないのですね。 猪俣:はい。そこで当時、仕事で携わっていたVR技術を応用すれば、一人一人が持つ幻肢のイメージに合わせたビジュアルを作り出すことができ、より高い効果が出るのではないかと考え、株式会社KIDSを立ち上げました。 せっかく作るなら、きちんと臨床研究をして、同じように幻肢痛に悩む人たちの治療につなげたい。そんな思いから、東大病院、畿央大学の先生の協力のもと、私自身も被験者の一人となって、当事者を中心に研究開発を進めていきました。