黒死病でも活躍、「ワインの窓」がますます広がる、イタリアのフィレンツェで人気上昇
黒死病の感染拡大を防ぐ最前線に
1630年、腺ペスト(黒死病)がフィレンツェで猛威を振るったとき、ワインの窓は、人口の12%の命を奪ったこの疫病の感染拡大を防ぐ最前線になった。 フィレンツェの学者フランチェスコ・ロンディネッリは、1634年の著書『Relazione del Contagio stato in Firenze l’anno 1630 e 1633(1630年と1633年のフィレンツェにおける伝染病に関する報告)』の中で次のように記している。 「ワインを購入するのは主に貧しい人々だったため、自宅でワインを売っていた人々は、瓶に触って病気に感染することのないよう、窓にワインを注ぐための漏斗(ろうと)を取り付けたスズ製の注ぎ口を設置し、外にいる購入者はそこからワインを受け取っていた」 また、ワインの代金として支払われた硬貨は、「銅製のひしゃくで集め、すぐに酢の中に投げ入れて」消毒していたという。 ワインの窓は1700年代にピークを迎え、フィレンツェには数百ものワインの窓が点在した。流行はトスカーナ全域、さらにはイタリア北部にも広がり、ピサやシエナ、ファエンツァなどの街でも、ワインの窓の名残を見つけることができる。 最初に作られたワインの窓がどれなのかは、誰にもわからない。しかし最近、地元の公文書館で発見された1596年の文書が、これまでで最古の記録と特定された。この文書には、「パラッツォ・ルチェッライ(ルチェッライ宮殿)」にワインの窓を設置するために大工と鍛冶屋に支払われた料金の明細が書かれている。 現在、パルケッティ通りにあるこの荘厳な建物には2つのワインの窓があるが、どちらも一般には公開されていない。 フィレンツェはルネサンス誕生の地であり、他にも数多くの重要な文化的伝統が生まれた場所だ。それを思えば、この地が、ワインの窓のような魅力的な風習の発祥の地になったのも不思議ではないと、イタリアの芸術および建築史の教授であるルッジェーロ氏は語る。 「フィレンツェは近代世界の誕生を象徴する地です。学問の世界では、ルネサンスという言葉を使うのをやめ、近世(アーリーモダン)と呼ぶようになっています。現代社会のほぼ全て、つまり金融、文化、文学、芸術などは、もとをたどれば古代ギリシャ・ローマ、あるいはフィレンツェのどちらかの影響を受けています。ワインのジェントリフィケーション(高級化)もそうですね!」
文=David Kindy/訳=夏村貴子