柴田勲さん「あれがなければ、1回くらい監督やれたかな」トランプ柄セーター会見に悔いも
巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第5回は、主に1番打者としてV9に大きく貢献した柴田勲さん(80)の登場だ。日本初の本格的なスイッチヒッターは、代名詞とも言える赤い手袋とともに、縦横無尽にグラウンドを駆け巡った。時代の先駆者だった柴田さんが振り返る「喜怒哀楽」とは―。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫) スイッチがモノになって1軍に定着するのは、2年目の63年5月から。それまでの約1年間は2軍の多摩川暮らしだった。やさぐれて、寮長兼コーチの武宮敏明さんとはケンカばっかりしていたね。ピッチャーをクビになってムシャクシャしていた時に、あれはダメ、これはダメ、掃除当番に遅刻したら1か月外出禁止、とかね。とにかく合わない。何を言われても反抗していたから「柴田は生意気な野郎だ」と思われていたと思う。こちらも嫌みタラタラの「多摩川ブルース」なんてつくったりしてね【注2】。 それより、解説者時代の92年にポーカー賭博で逮捕された一件、あれはツラかったな…。 仲間うちでトランプをしていたんだけど、その中の一人が家庭内でトラブルを抱えていた。内偵していた警察がその件で踏み込んできた時に、僕らも現場にいて現行犯になった。 後々不起訴にはなったけれど、これがマスコミに漏れた。釈放された後に箱根の別荘に行っていたら、東京の自宅に報道陣が押し寄せてきていた。女房から「早く帰ってきて」って言われて、旅先から急いで帰ってきた。その時に着ていたのがたまたま、トランプ柄のセーターだったんだよ。 その時はセーターの柄なんて全く気がついていなかった。着替えて対応しようと思ったら、「そのままで結構ですから」って言われちゃってさ。芸人ならジョークで面白いかも分からないけど、野球選手でそれはマズいって笑われたよね。いまだに言われますよ。当時、解説者として契約していたマスコミは全部クビになった。 自業自得とはいえ、それ以降、ユニホームの声は一切かからなくなった。あれがなければ、1回くらい監督をやれたかなって思う。監督か…。やってみたかったなあ。やれたら面白かっただろうね。人生にはいろんな転機があるけど、悪い転機のNO1ですね。 【注2】当時流行していた練馬の少年鑑別所を歌った「ネリカンブルース」の替え歌で、多摩川グラウンドや合宿所での2軍生活の悲哀を柴田さん自ら作詞。歌い出しは「人里離れた多摩川に 野球の地獄があろうとは―」。 ◆柴田 勲(しばた・いさお)1944年2月8日、横浜市生まれ。80歳。法政二時代、エース兼主力打者として60年夏、61年春の甲子園で連続優勝し、62年に巨人入り。この年6試合で0勝2敗に終わり、翌年から外野手に転向。俊足の1番打者として盗塁王を6度獲得。通算2208試合に出場。2018安打、708打点、194本塁打。打率・267。通算盗塁数579個は現在もセ・リーグ記録。
報知新聞社