“消えた天才騎手”田原成貴「鈴木さん、久しぶりですね」因縁スポーツ紙記者と再会で…「ブライアンは終わったな、と」三冠馬を大いに語る
30年近く音信不通だった田原が…あっさりとOKを
ナリタブライアンのノンフィクション本を出すことが決まってから、当事者以外に話を聞くとしたら彼しかいないと思っていた。 なぜなら、ナリタブライアンに先着した騎手は彼を含めて24人おり(とはいえ、その大半はナリタブライアンが本格化するまえの2歳時か、股関節炎から復帰初戦の1995年秋の天皇賞でのもの)、複数回先着した騎手も4人いるが、ナリタブライアンに2度も勝ったのは田原成貴だけだから。しかも頭が良くて弁も立つ。これ以上の適任者はいない、と。 そうはいっても、騎手と記者として友好関係を築いていた当時とは違うし、何より30年近く音信不通である。取材のオファーを受け入れてくれるのか。しかし、東京スポーツの知人を介して取材依頼を出すと、拍子抜けするくらいあっさりとOKが出た。
久しぶりですね。いつ以来になるのかな
東スポの知人から「あとは直接、本人と話してください」と、現在の携帯電話の番号を伝えられ、電話をかける時は緊張した。30年ほどまえ、彼のマスコミ(特に毎週のようにトレセンへ取材に来るスポーツ紙の記者)への対応はだいたいぶっきらぼうで、それは私に対しても例外ではなかったからだ。饒舌な時のほうが多いのだが、気分屋だけに不用意な発言をすれば取材を打ち切ることもあり(なかにはもっと面倒な騎手もいたが)、尖った彼へは慎重に言葉を選んで取材していた。 高鳴る自分の胸の鼓動を聞きながら、教えてもらったばかりの電話番号をスマホに入力した。 「鈴木さん、久しぶりですね。いつ以来になるのかな」 電話口から忘れようもない懐かしい声が聞こえてきた。ただ、その語り口がマイルドで丁寧なのが30年前とは違っていた。 (中略)
伝説の96年阪神大賞典を田原が回顧する
いきなり話が核心に迫ろうとしたので、私は身構えた。 目の前にいる田原さんの目の色、そして語り口が変わっていた。30年前の田原成貴に戻っているかのようだった。 「やっぱり勝負事はナメちゃいけないよね。競馬を結果論で語るなという人が多いけど、結果論で語らないといけないところがある。負けたほうとしては『こうしていれば勝ったな』という思いがあるから」 阪神大賞典のあとで、田原さんはマヤノトップガンを管理する坂口正大調教師から「実は急仕上げやった」と言われたという。 「大阪杯(3月31日)に使う予定を阪神大賞典(3月9日)にしてもらったのは僕。馬主さん(田所祐)に『天皇賞を使うんだったら、今のトップガンは引っ掛かるから2000メートル(の大阪杯)を使ったあとの3200メートルはつらい。当時の大阪杯はGIじゃなかったからね。GIだったら逆に2000メートルのほうが競馬をしやすいから大阪杯に行きましょうと言っていたと思うけど……。でも、GIじゃないし、2000メートルのあとの3200メートルではより引っ掛かる。『天皇賞を勝つんだったら阪神大賞典を使ってくれ』とお願いしたんですよ」 阪神大賞典の最終追い切りに乗った時の感触は、年度代表馬のタイトルを決定づけた有馬記念を制した時と同じくらいと思うほど良かった。 「返し馬も良かったし……。『よし、これやったら早めに突き放したら、本調子ではないブライアンは追いついてこられないだろう』と。それでちょっと早めに(仕掛けて)いったんですよ。でもちょっと差された。差されたということは、ちょっと仕掛けが早かったということ。すごく悔やんでますよ」