大谷翔平世代の「消えた天才たち」のウラで中日入団…超無名選手はなぜプロ野球に行けた? 1人だけ補欠“バカにされた”150cmの中学1年生、逆襲が始まった日
将来の夢は「公務員」…揺れる進路決断
中学卒業後の進路は2つ考えていた。三浦らとともに石巻工業へ入るか、あるいは母親のアドバイスに従って大学の付属校を一般受験するか。 ちなみにその頃の岡野の夢はこうだった。 「将来の夢を調べるみたいな授業のとき、自分は公務員を調べました。小学校のときはプロ野球選手になりたかったんですけど、中学では補欠過ぎて無理だなと思っていたので。田舎の人間って公務員になりたがるじゃないですか」 進路で悩んでいるときに、宮城県内のシニアチームでコーチをしていた叔父に福島の聖光学院の練習体験会に参加してみないかとの提案を受ける。聖光学院は福島県の絶対王者だ。そのときも丸3年間、県内で負けたことがなかった。 予期せぬ誘いに岡野の好奇心がうずいた。 「甲子園にしょっちゅう出ているような高校に行こうとしていなかったので、見てみたいなと思って」 そして、聖光学院を訪れるなり、練習中の雰囲気に心をわしづかみにされた。 「すごいなって。もう、あの感じが。熱量というか。ここで野球をやりたいなと思ってしまったんです」 聖光学院を率いるのは魂の指揮官、斎藤智也だ。実直で、ユーモアがあって、真っ赤に焼かれた鉄のように熱い男である。岡野が言う。 「(聖光は)よくも悪くも斎藤教なんで。練習中、おまえらはやり切る力がないからダメなんだって言われて、過呼吸になって倒れてしまう選手とかもいました」
なぜ強豪・聖光学院に進学?
私も何度となく聖光学院のグラウンドの雰囲気を体感したことがある。東日本大震災のあと学校から約65キロの地点にある福島第一原子力発電所から大量の放射性物質が放出されたときも、新型コロナが流行し甲子園という大目標を失ったときも、聖光のグラウンドだけは透明なドームで覆われているかのように「いつも通り」だった。その透明な屋根をつくっているもの。それは斎藤が発する気だった。 積極的な選手勧誘をしない聖光は「来る者は拒まず」というスタンスだった。だが、岡野はあえて自分に条件を課した。 特待でなければ行かない――。〈つづく〉
(「野ボール横丁」中村計 = 文)
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