「あいつは死刑囚の手記をよく読んでいた」…附属池田小事件・宅間守の常軌を逸した“性衝動”と“自殺願望”。「オヤジは相変わらずや。やっぱり殺しておけばよかったんや」
「守の生首を持って、被害者のお宅を謝罪してまわりたい」
常人には理解できない強い性衝動とともに、守は自殺願望も学習ノートに記述している。 〈僕はもう疲れた精神的にもう死ぬしかない生きていても無意味だ 生れてから心の底から笑った事は、何回あるだろうか 俺の精神状態は狂っている もういやだ、17年間ありがとう〉 守は死刑にも憧れがあった、とAさんは言う。 「あいつは死刑囚の手記をよく読んでいた。死刑になりたいんや、と守の口から3回聞いている。理由は今でもわからんのや」 死刑願望――。その巻き添えで、小さな命が奪われたとしたら、言葉もない。犯行の10日前、守は絶縁していた父親のAさんに「悪かったなあ。迷惑かけたな」と詫びの電話を入れている。 「ワシはその言葉を信用しなかった。金をせびるためにまた演技しよる。母親宛ての贈答品も『取り込むつもりだ』と疑った」 このとき、Aさんが守を受け入れていれば、惨劇は起きなかったのだろうか。答えは永遠にわからない。 2002年6月の公判でAさんの証言が読み上げられた。 「本来なら、守の生首を持って、被害者のお宅を謝罪してまわりたい」 それを聞いた守は、「オヤジは相変わらずや、自分ばっかり正当化して。やっぱり殺しておけばよかったんや」とつぶやいた。嫌がる妻を説き伏せてまで産んでもらった次男の呪詛。Aさんはゆっくりと嘆息して、わたしに語った。 「あいつがいちばん憎んでいるのは、ワシなんや。あのときワシを殺ってくれたら、8人の子供の命は助かったかもしらん。けど、被害者の方々へのお詫びはもちろん、ワシらや親戚一同に、本当に申し訳ないという気持ちが起きひんかったら、あいつは畜生のままで終わってしまう」
死刑求刑の直後、実父が語った言葉
論告求刑前日の2003年5月21日。わたしはAさん宅にいた。10日ぶりの訪問だ。事件後、マスコミが殺到したため玄関にキーチェーンをつけたが、事前に鍵は外され、ドアも開いていた。 こたつの上には珍しく缶ビールがなかった。「今日は飲んでいなのか」と聞くと「唇がカサカサしてな」と調子が悪そうだった。半袖の白シャツに明るいブルーのジャンパー、薄い生地のナイロンのジャージ姿は、この前と同じだった。「全部1000円以下や、俺は年中こんな格好だよ」と笑う。 「マスコミが来たって、ワシはもう相手にせん。新聞記者なんか『絶対書きませんから』と約束しておいてしっかり記事にしよる。テレビの記者は『自費でビデオを買ったんで、記念にお父さんを撮影したい』というさかい、取材を受けたら、なにしっかり放送してるやないか。 そいつを呼び出して問い質したら、『知らないうちに誰かがビデオを持ち出した』とぬかしよる。もう、いい加減にさらせと言いたいわ」 翌5月22日、論告求刑当日。午前6時半に起床すると、Aさんは味噌汁を作ってくれた。 エノキにジャガイモ、根昆布など健康を考えた食材をふんだんに使い、隠し味の昆布茶がいい味を出していた。前夜の残りのおにぎりをふたりで頬張る。「天ぷら食べるか」と言いながら何度も台所に立った。実の息子が死刑を求刑される日に、他人が居座っているわけで、落ち着いてテレビなど見られるはずはなかった。 「宅間守に死刑求刑」 正午。NHKは論告求刑をトップニュースで報じた。 「死刑は当然である。それを受け止め全うすることが、守の人としての道だ」 テレビ画面からわたしに向き直り、原稿を読むように淡々とAさんは語った。記者であるわたしへの最大のサービスだったのだろう。 護送バスに移動する逮捕当時の守の映像を見ながら、「舌で頬を尖らせているだろう。あれは精神病院から飛び降りたときの、骨折の後遺症があるからなんだ。やっぱり頬が気になるんだろうな」と静かに語るその姿に、父親としての悲哀が漂った。自宅前にはマスコミが集まっていた。 「心境に変化はない。今までにすべて話している。ちゃんと勉強して来い。俺をまたおもちゃにする気か」 Aさんは大声を出して追い返した。翌日の新聞に書かれることがわかっていて、同じことを繰り返す。 「ワシは謝ることもできないし、自分のやりたいように70年生きてきた。変えろと言われても無理な話や。損な性格だとわかっているが、これがワシの生き方なんや」