“人生初の新聞購読”を始めた東大生が「紙の新聞はネット記事よりコスパがいい」と思った理由
―[貧困東大生・布施川天馬]― みなさんは普段どの媒体から情報を摂取しますか?誰でもインターネットにつながっている現代では、ネットニュースやネット記事がメインの方も多いのでは。 私は、敢えてここで「紙の新聞」の重要性を再確認したく考えています。昨今のSNSでは「マスゴミ」「偏向報道」「忖度」なんてワードが飛び交います。 テレビや新聞などオールドメディアの情報は批判され、YouTubeなどを通じた「暴露」がもてはやされる。では、それにどれだけの意味が込められているでしょうか。 私たちは、知らず知らずのうちに、過激で、わかりやすく、センセーショナルなニュースばかりを好んでいるのかもしれません。無意識のうちに、自分にとって都合のいい情報ばかりに囲まれる「フィルターバブル」から脱せていない。 ですが、「芸能人の○○が不倫していた」だの「○○社の商品への異物混入の投稿」などは社会にとって重要なニュースではないでしょう。なじみ深い情報ばかりを集めるのではなく、「自分が知らなかった情報」を集めることにこそ、意味があるはずです。 今回は、今年の4月から半年以上紙の新聞を取り続けてわかった、「現代人こそ紙の新聞を読むべき理由」をお伝えします。
ネットニュースだけでは得られない要素とは
私たちは、毎日無料の情報を摂取しています。テレビやネットニュース、YouTubeはその代表。だからこそ、情報を無料と勘違いしがちです。ですが、本質的な情報は無料では転がっていない。正確に言えば、「情報があるだけ」でしかありません。 情報とは単体では意味を成しません。背景となる出来事、歴史的事情、人物像などを加味してこそ分析ができますし、どんな影響があるか論じるためには、社会の現状について広く知っており、ほかの出来事との相対化が必要。 ですが、ネットニュースには、この「情報の体系化」の要素が非常に欠けている。
「情報を摂取する」とはどういうことか
確かに、SNSで炎上するような事件はどれも扇情的で刺激に満ち溢れていて、誰しもが口を出せるほどに明快です。 「買った商品に致命的な不備があった」とか、「立ち寄ったお店が信じられないほど塩対応だった」とか、リアルな「怒り」に飾られた報告は、リアリティのある文体が伴います。まるで自分が当事者になったかのように、読んだ瞬間から反感が立ち上ってくる。 ですが、単体の出来事にリアクションするだけでは、まったく意味がありません。我々が情報を摂取する意味は、それを元に未来を予測したり、立ち位置などを読み取ったりするためでしょう。 そう考えると、情報はある程度まとめられていてしかるべきですし、読後には、考察を走らせるべき。仮に、そうしなかったなら、娯楽として消費しているにすぎず、「情報を摂取している」とはお世辞にも言えません。