催涙スプレーで反撃、走行電車から飛び降り 捜査3課vs「韓国人武装すり団」の戦い㊤ 警視庁150年
かつて警察手帳は、ひもでスーツや制服に固定していたが、犯人らの中にはわざと接近してきてひもを切り落としてくる者もいたという。「犯行を邪魔された腹いせだろう」(同)
■取り締まりの副作用
すり団が日本で犯行に及ぶようになったきっかけは、韓国政府がすり犯に厳しく対応したことにあるとされる。
韓国では1988(昭和63)年ごろから摘発に銃器の使用を認めるなど、取り締まりを強化。すり団が活路を求めたのが隣国、日本だった。
「日本人は防犯意識が希薄で、すりが簡単」「逮捕されても日本は刑が軽い」。彼らはこううそぶいたという。
日本での韓国人すり犯の摘発件数は平成3年から毎年、200~600件台を推移。9年には1千件を超えた。
一度は落ち着いたものの、14年から増加に転じ、16年ごろからはATM利用者の暗証番号を盗み見て、尾行して取り囲んでキャッシュカードを奪う手口まで現れた。
年々手口が凶悪化していくすり団と、捜査3課の「死闘」は続いた。(内田優作)=(下)へ続く