中日のノーヒッター山井大介が、縁もゆかりもない東北で今も支援を続ける理由 「草野球の兄ちゃんと思われてもいい」覚悟の施設訪問から11年 #知り続ける
「あの子たちの顔を思い浮かべると続けることの大切さもあるのかな。もう震災のことが関係なくなっているけど、小さな子どもたちと一緒に遊べるのもまたいいな」 当初はグラブやボールだった贈り物は、園庭の広さや小さな子どものことを考え、おもちゃに変えた。仙台市での楽天戦にも招待。マウンドでの勇姿を見せた。 直前に出場選手登録を外れ、立ち会えなかったときもある。その時は球場案内や選手との写真撮影を手配し、喜んでもらおうと力を尽くした。支援は野球教室の開催などへ広がった。新型コロナウイルス禍で足を運べなかった2020年はクリスマスプレゼントを贈った。 ▽「ユニホームを脱いでも続けたい」 被災地では復興の現実を目の当たりにした。2013年の時点でも「何もなかった」。沿岸部の街並みは消え、工事車両ばかりが往来する。鉄骨だけが残る宮城県南三陸町の防災対策庁舎などの震災遺構で津波の猛威を目にし、恐怖を覚えた。
夜の町も静かだった。少しでも力になれればと、気仙沼市の復興屋台村で何軒もはしご。「ばーって飲んで、お金を置いて、隣に行こうってずっとやって。あの時こそ、本当に復興支援をしてたという感じがした」 一方で、訪れる度に新たな出会いがあり、大切なつながりになっていく。たとえば、妻や娘を含めた親族7人を失った千葉清英さんが、一人生き残った長男瑛太くんとの約束でつくったバッティングセンター。被災地の支援は「ユニホームを脱いでも続けたい」と強く思うようになった。 ▽「自然と手を出せたら」原点に父の教えも 「野球がいろんな人に力を与えられるのなら、支援の輪が広がっていったらいい」と現役選手にも力を借りた。仙台市出身で中学2年時に被災した中日の梅津晃大投手や岩手県一関市出身の楽天の阿部寿樹内野手らに声をかけた。支援活動を続ける先輩の姿は、梅津投手の胸に響いたようだ。「すごく喜んでくれた。山井さんのように続けられることはすごいことだし、いつかは自分の力で行けるような選手になりたい」