日本の実権を握り続けた田中角栄の黒すぎる「本性」とその裏にいた衝撃の「人物」
安倍元首相が国士と賞賛した葛西敬之が死の床についた。政界と密接に関わり、国鉄の民営化や晩年ではリニア事業の推進に心血を注ぎ、日本のインフラに貢献してきた。また、安倍を初めとする政治家たちと親交を深め、10年以上も中心となって日本を「事実上」動かしてきた。 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 本連載では、類まれなる愛国者であった葛西敬之の生涯を振り返り、日本を裏で操ってきたフィクサーの知られざる素顔を『国商』(森功著)から一部抜粋して紹介する。 『国商』連載第13回 『「間違いなく国の形を変えた」...国鉄の民営化に隠された知られざる衝撃の真実』より続く
動かない分割「入口論」
中曽根康弘は1980(昭和55)年7月、大平正芳の急逝を受けて発足した鈴木善幸内閣で行政管理庁長官に就任し、行政改革に着手した。行政管理庁はその名称通り、戦後、日本の行政機構のあり様を管理、検討する臨時組織として創設された。鈴木内閣では翌1981年3月、諮問機関として第二次臨時行政調査会を設置し、東芝元会長の土光敏夫が第二臨調の会長に就任する。国鉄改革はここから動き始めた。中曽根が長官に就いた行政管理庁は、のちに第二臨調の提言により官僚人事を管理するようになる。総務庁の前身だ。 ちなみに第二臨調と呼ばれるのは、61年11月に池田勇人内閣が行政改革を目指して設置した第一臨調の次に設置されたからだ。81年7月、国鉄民営化を担う第二臨調の第二特別部会が第四部会に再編成され、第二特別部会長だった慶大教授の加藤寛がそのまま第四部会長となる。部会長代理には元運輸事務次官の住田正二が就いた。住田はのちのJR東日本の初代社長だ。 7月30日、第二臨調が第三次答申で公社制度を改め、分割・民営化が必要であるという方針を打ち出した。このとき第二臨調第四部会長の加藤の提唱した国鉄分割論が初めて世に出たのである。第二臨調の答申を受けた鈴木内閣は9月24日、「日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について」と題し国鉄改革の閣議決定をした。5年以内の事業再建を目指し、職場規律の確立や新規採用の原則停止など10項目の緊急対策に取り組むとした。 もっともこの時点で、政府による国鉄分割民営化の方針が固まっていたわけではない。むしろまだ民営化の是非すら定まっておらず、分割どころではなかった。分割については「民営化と同時の5年以内」という「入口論」と、「経営改善計画」を優先して経営の再建を図り、それが無理だったら分割民営化するという「出口論」の二つに分かれていた。第二臨調の加藤たちはすぐにでも分割民営化すべきだという入口論者だった。 が、国鉄社内はもとより自民党の運輸交通部会でも出口論が主流で、鉄道を民間に任せるべきではない、という強硬論も根強かった。三人組のなかでさえ葛西が一人、分割を検討すべきだと主張していたに過ぎない。行政管理庁長官だった中曽根もまた、民営化は必須だと考えたが、入口論を強く主張したわけではない。 この国鉄分割論に立ちはだかったのが、田中角栄であり、加藤六月である。