日本の実権を握り続けた田中角栄の黒すぎる「本性」とその裏にいた衝撃の「人物」
「闇将軍」の暗躍
ロッキード事件という歴史に残る大疑獄を引き起こしたにもかかわらず、田中は公判が始まると、事件を追及した首相の三木武夫おろしを画策し、その影響力はますます増した。事実、三木政権は短命に終わり、福田赳夫が首相に就く。福田はかつて田中と総裁選を争ったライバルだが、首相の座に就けたのは三木おろしで田中と共闘したからだ。それまで今太閤と呼ばれ自民党最大派閥を率いた田中は、そこから闇将軍に呼称が変わる。呼び名通り、次の大平正芳、その次の鈴木善幸、と首相たちを裏で操っていく。 そして大平、鈴木に続き、田中の支持を取りつけた中曽根が82年11月、第一次政権をスタートする。弱小派閥の領袖に過ぎなかった中曽根は、まさに田中の庇護の下で政権を握ることができた。米公文書で明らかになったように、佐藤栄作政権で防衛庁長官を務め、田中政権誕生後に科学技術庁長官に登用された中曽根自身、ロッキード事件にも深くかかわっていた。事件が発覚すると、米国務長官のキッシンジャーと裏交渉してきた中曽根が、闇将軍に逆らえなかったのは想像に難くない。 鈴木内閣時代に第二臨調が打ち出した「5年以内の分割民営化」を受けた閣議決定は、あくまで「5年以内の事業再建」であり、分割するとはいっていない。つまり曖昧のままだ。この間、自民党は1982年2月に「国鉄再建に関する小委員会」を立ち上げた。福田派、清和会の三塚博が国鉄再建小委員会の委員長に就き、「三塚委員会」と呼ばれるようになる。三塚は第一次中曽根政権でも委員長を続投した。 発足したばかりの中曽根内閣では、国鉄再建監理委員会の設置等について定めた「日本国有鉄道の経営する事業の再建の推進に関する臨時措置法案」を国会に提出し、成立させた。いわゆる国鉄再建臨時措置法が83年5月13日に成立して6月10日に施行され、中曽根は同時に自らの諮問機関として「国鉄再建監理委員会」を立ち上げた。 その初会合で住友電工会長の亀井正夫が第二臨調会長の土光敏夫に指名され、再建監理委員会の委員長に就く。また第二臨調第四部会長の慶大の加藤寛が委員長代理となる。亀井は第二臨調で分割民営化を唱え、加藤はその理論的支柱となって二人で国鉄分割民営化の旗を振ってきた。一方で中曽根は12月に内閣改造をして第二次内閣をスタートさせ、政権基盤を安定させていった。 しかし、この時点でもなお、中曽根政権は5年以内の分割民営化という入口論までは踏み込めなかった。それは田中をはじめとした自民党運輸族議員の主流派が分割に反対してきたからにほかならない。 前述したように、国労失墜のきっかけとなる国鉄職員のスト権ストを巡っては、自民党内が首相の三木などそれを容認するハト派とストをつぶそうとするタカ派に割れた。このとき金権政治を批判する三木と対立してきた運輸族のボスである田中角栄は、国労にある種のシンパシーを抱いていたため、微妙な立場に置かれた。 田中は国鉄でマル生闘争を指揮した国労委員長の細井宗一の戦友だった。田中と細井はともに新潟県出身の同郷で同じ歳でもある。戦中は細井が盛岡騎兵第3旅団24連隊の士官候補生、田中は徴兵でそこに入隊した一兵卒に過ぎなかった。上官にあたる同郷の細井は田中に目をかけ、何かと面倒を見た。そんな二人の関係は戦後もずっと続き、細井は田中の目白邸にフリーパスで出入りできる間柄になる。田中は国鉄に限らず、労働問題全般について常に細井のアドバイスを受けてきた。 田中は国労の息の根を止めるような国鉄分割民営化には徹底して反対した。 『干された社内の改革派...国鉄分割に反対した日本政界の権力者・田中角栄の「隠された」真意』へ続く
森 功(ジャーナリスト)