短命の家系で、病弱だった松下幸之助 主治医を感嘆させた「病気を味わう生き方」
人生100年時代を生きるビジネスパーソンは、ロールモデルのない働き方や生き方を求められ、様々な悩みや不安を抱えている。本記事では、激動の時代を生き抜くヒントとして、松下幸之助の言葉から、その思考に迫る。グローバル企業パナソニックを一代で築き上げた敏腕経営者の生き方、考え方とは? 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) 【松下幸之助(まつしたこうのすけ)】 1894年生まれ。9歳で商売の世界に入り、苦労を重ね、パナソニック(旧松下電器産業)グループを創業する。1946年、PHP研究所を創設。89年、94歳で没。 ※本稿は、『THE21』2024年1月号に掲載された「松下幸之助の順境よし、逆境さらによし~病気と寿命は別物である。120歳まで生きてやろう。」を一部編集したものです。
短命の家系に毎年寝込む病弱な身体、それでも94歳の長寿を全うした幸之助
松下幸之助の人生には数々の奇跡的なことが起こっている。その最たる事実に、幸之助が94歳の長寿を全うしたことがある。無論、現在では人生100年時代でもあり、驚異には当たらないとしても、両親と7人のきょうだいすべてが、幸之助26歳に至るまでに病死している事実、また幸之助本人も20歳前後で肺尖カタルを患って喀血し、自身も夭折を覚悟した経緯を思えば尋常ではない。 21年、99歳で亡くなられた一人娘の幸子氏はかつてインタビューの折、「自分の幼少の頃の父(幸之助)は、冬は常に病床に臥していた思い出しかありません」と語っていた。 病身を気遣いながら、激務になりがちな経営を、人にタクトを任せることで切り抜け、しかも成功させて、結果として94年の人生を生き切った幸之助は、どのような健康観を有していたのだろう。 ここで、健康面から幸之助の日常を考察するのに、切っても切れない場所と人物がある。それは、松下記念病院(大阪府守口市)と、晩年まで幸之助の主治医を務めた横尾定美名誉院長(当時)だ。 まず、旧松下病院と現在の松下記念病院は、長年幸之助の平日の住まいであった。横尾氏によると、幸之助の病院住まいは59歳から亡くなるまで、都合35年に及ぶ。 その暮らしぶりは平日、仕事を終えるとすぐに記念病院7階の特別病室に帰宅。食事は和食中心で、「吉兆」で修行した専属料理人・山田謙次氏が、住み込みで朝夕、上品な日本料理を提供していた。酒はあまり強くないものの、嫌いではなく、5酌、1合程度。そうして週末になると西宮の本宅に帰るというものだった。 横尾氏は幸之助の主治医として80歳から亡くなるまで14年間を病院で接した。よく長寿は名医と名患者の共同作業で成立するとも言われるが、確かに幸之助と横尾氏の関係は興味深い。 松下記念病院の勤務2年目に主治医に正式に任命された折、横尾氏は幸之助からこう宣言されたという。 「病院の中にいる時間は、わしはひとりの入院患者のつもりでいる。したがってあんた方もそのつもりでみてくれ」 後年、幸之助の最期を看取るとき、看護師の「痰を採りますからご辛抱を」の言葉に、「お願いするのは私のほうです」と謙虚に語った幸之助だが、一方で横尾氏には自身の健康の同伴者として、強い責任を求めていた。尋常ではない緊張を覚えたことだろう。