【震災とイエ】放火された自宅の跡地で
「多くの人が、あの小学校の屋上で、地獄を見た。家がそのまま海に流されて、2階から手を振っている人がいるのが見えるのに、その家が、沈んでいく。そんな恐ろしい風景を見たのだから、みんな『こんな場所には二度と住みたくない』と言うようになったのです」 あの日、大津波は、集落のすべてを飲み込んだ。仙台市は津波の危険から、2011年9月に荒浜での居住を原則禁止。荒浜の人々は市内各地の仮設住宅などに入居し、ばらばらの場所に住むことになった。多くの住民は、内陸に建設される災害公営住宅に集団で移転することが決まった。数百年の歴史を持つ「荒浜」という名の集落が、あの日のあの一瞬で、なくなったのだ。 貴田さんは、先祖から何百年も脈々と続いてきた故郷の生活や文化が一瞬の震災で消えてしまうことに、そして自分を形作ってきたこの土地を離れることに耐えることができず、仮設住宅から荒浜へと通う日々を続けた。
貴田さんは2012年、「荒浜再生を願う会」を発足。その後自宅跡地に小屋を建て、「この場所に帰りたい」気持ちを表す象徴として、映画「幸福の黄色いハンカチ」にちなんだ黄色いハンカチを掲げた。月に一度は「蘇生活動」と称してその小屋を解放し、海岸清掃やイベント開催の拠点にして、参加者に食べ物を羽振りよく振る舞う荒浜の文化「お振る舞い」をした。元住民に、ときに家族にまで、「いつまでこんなことをするのか」と呆れられたことも少なくなかったが、「荒浜」という場所に漂う思い出や記憶、歴史の灯りを、途絶えさせたくなかった。 荒浜から工芸品を売る新たな取り組みを始めようとしていた矢先、放火は起きた。10数枚が吊るされていた黄色いハンカチも、上2枚を残して焼失していた。「悔しい」。貴田さんは当時、そう一言だけつぶやいた。 ◇
12月13日。全焼した小屋の隣に、簡易なテントが張られていた。新調されてより濃さを増した10数枚の黄色が、浜風になびいていた。荒浜では震災を語り継ぐためのイベントが開かれ、元荒浜住民のお母さんたちが作るお雑煮の「お振る舞い」がされていた。元住民と若い世代とが交流し、その場所には再び笑い声が溢れていた。