松山猛が語る加藤和彦、ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンド
「イムジン河」の誕生秘話
イムジン河 / ザ・フォーク・クルセダーズ 田家:お聴きいただいているのは5月22日発売の『The Works Of TONOBAN~加藤和彦作品集~』のものなのですが、リマスタリングされているので、ちょっと聴こえ方が変わっているかもしれない。 松山:そうですね。なんか素敵な感じになっていると思いますね。 田家:古い感じがしないですもんね。もともとは1967年10月に発売になったザ・フォーク・クルセダーズの自主制作盤『ハレンチ』の中に入っておりました。松山さんには以前、この番組の前に1回お話を伺ったことがあって、朝鮮中高等学校へサッカーの試合を申し込みに行ったときにこの曲を聴いたと。 松山:そうです。京都だけじゃないと思いますけど、結構朝鮮学校の子と日本人の学生は喧嘩ばかりしていましたから、なんとかしたいなと思って。担任だった原田さんという先生となんかいい解決方法はないでしょうかねって話をしていて。彼らはサッカーが強いから親善試合みたいなのをしたらどうかなという話になり、僕が申し込みに行ってきますという感じで行ってきたんです。そのとき帰り際にコーラス部が練習しているのが聴こえてきた。 田家:その歌を九条大橋でトランペットを一緒に吹いていた朝鮮の中学の人に楽譜をもらったという話がありましたね。 松山:僕がトランペットでムンくんという朝鮮中学校の人はサキソフォンを吹いていた。お互いに家で練習をすると、近所にうるさいって言われるから橋の上に彼も来て、僕も行って。で、自然と付き合いが始まって、気になる歌を聴いたんだけどってメロディを歌ったら、それは「イムジン河」って今学校で歌ってますって。気になるんだったら彼の妹がコーラス部なので、譜面をもらってきてあげるって言って、楽譜と歌詞が書いてあるものをくれたんです。 田家:その楽譜がすべてだったわけですもんね。 松山:そうです。朝鮮語小辞典というのも彼がくれたから、訳してみたりしていたんです。 イムジン河 / ミューテーション・ファクトリー 田家:流れているのは再び「イムジン河」ですが、歌っているのはミューテーション・ファクトリー。松山猛さん、芦田雅喜さん、平沼義男さん。 松山:北山修くんがプロデュースして、彼もすごい悔しかったんでしょうね。 田家:URCで第一回目のシングルですもんね。 松山:そうなんです。東芝が出しそびれたというか、いろいろ尾ひれがついちゃったりして。北山の悔しさみたいなものがあって、やろうよって言うので。僕も一緒に歌うことになったという。 田家:アマチュア時代のメンバーの芦田さんと平沼さんと楽譜を持ってきた松山さんというトリオ。その楽譜を北山さんにまずお渡しになった? それとも加藤さんにお渡しになった? 松山:いや、彼らの練習場所に行ったんですよ。彼らは当時、コミックソングでうけていたアマチュア・バンドだったんです。 田家:ええ、フォークルはね。 松山:コミカルな歌でうけている人たちがシリアスな歌を歌ったら、どんな化学反応があるかなと思って。周りに反戦歌とか歌っている知り合いもいたんだけど、その人たちがストレートにそれを歌ってもおもしろくないなと思って。で、フォークルに託そうと思って実はこんな歌があるんだけどって相談をしたら、その頃は朝鮮語の1番と日本語の1番しかなかったので、北山がこれじゃステージ持たないよって。持ってきた責任で猛書けよって言うから、彼らが練習している横で2番、3番を作って。 田家:そのときの北山さんの北朝鮮の民謡だと思ったことをとても今後悔しているみたいな話が映画の中にありましたね。 松山:そうですね。僕も知らずに伝えちゃったおっちょこちょいなところがあってね。ビジネスにするんだったら、レコード会社でちょっと調べてよって思いましたけどね(笑)。 田家:まあそうですよね。実際に有名な作家の方が作られていて。 松山:そうなんです。作曲者も南側の人だったんです。朝鮮動乱で結局北へ行ったまま帰れなくなっちゃった。そういう思いも込められているんだと思いますよ。イムジン河を挟んで、自分たちの本当の故郷は向こうなんだけど。それを決して彼ら言えなかっただろうけど。 田家:レコード会社としては北朝鮮は日本と国交がないし、そういう名前は出せないということで中止になってしまった。URCはメジャーでは出せない音楽を世に送り出すということで始まったアンダーグラウンド・レコードクラブですもんね。 松山:「帰って来たヨッパライ」でちょっとお金ができたので、そういうことができるようになって(笑)。 田家:そのお金ができた元の曲をお聴きいただきます(笑)。松山さんが選ばれた今日の2曲目、フォークルで「帰って来たヨッパライ」。