「桐島は私が来ると思ってずっと湘南で待ってたんじゃないかな…」元メンバー・宇賀神寿一が明かす「さそり」結成と東アジア反日武装戦線合流、桐島聡への想い
東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーとして、7年の逃亡生活の果てに逮捕され、懲役18年の服役を終えて20年あまり。宇賀神寿一さんは大学の後輩であり、同じ「さそり」メンバーである、桐島聡さんの死を前に、「約束の9月」を思う。「そのことが、君を湘南から離れさせなかったのではなかったのか」と。 【画像】「9月に会おう」宇賀神寿一と桐島聡が待ち合わせを約束していた神社
後の「さそり」リーダー・黒川芳正との出会い
1972年夏、京都の集会で釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)メンバーや、船本洲治さんと出会ったことにより、宇賀神さんは寄せ場における日雇い労働者の闘いを知った。 「東京に帰って、『面白い会議があるから』と誘われて、初めて山谷へ行った。それが『底辺委員会』で、そこで黒川くんと会った」(宇賀神さん) 1972年秋のことだ。なぜ、「さそり」リーダーとなる黒川芳正さんが山谷にいたのか。宇賀神さんの取材に同行する道中さん(仮名・前編参照)男性が、説明してくれた。 「1972年当時、山谷では『現場闘争委員会(現闘委)』、釜ヶ崎では『釜共闘』の2つが、現場で闘っていて、両者の関係を繋いだのが船本だった。現闘委の支援組織として、黒川くんを中心に『底辺委員会』が活動していた。 黒川くんは都立大哲学科闘争委員会で活動して、自分の冊子を山谷近くの印刷所に印刷に来たのが1971年。そこに当時、船本がいて、理詰めの黒川くんとはタイプがだいぶ違うけれど、2人はよく話し合っていたし、きちんと話し合える関係性だったと思う」 とはいえ宇賀神さんにとって、初めて会った黒川さんは、「不気味な印象で、近寄りがたい人」でしかなかった。 「実際、黒川くんの印象は最悪だった。でも、底辺委員会の会議に皆勤で出ていたのは、山谷について知りたかったからだと思う」(宇賀神さん) これまで沖縄、三里塚と1人で動いてきた宇賀神さんがまさか、1年もたたないうちに、この黒川さんと「さそり」というチームを組むことになるのだ。 「私のようないい加減な人間が、黒川くんのような優等生的な活動には合わないのは確か。ただ自分には合わないけど、なんか、憧れのようなものはあったんだろうな。いろんなことが整理されていて、キチキチと行なうという」 宇賀神さんの隣で、道中さんが笑う。 「黒川くんは、喋らないから。酒も全然、飲まないし。彼は会議に出て、発言はしないけれど、ちゃんと次の日にレジメを作ってくる。当時の底辺委員会で、彼の役割は大きかった。雑多な討論の中で、きちんと方向性をレジメとしてまとめる。それは、貴重な役割。そんな人、山谷にはいないから」(道中さん)
【関連記事】
- 【前編を読む】〈桐島聡と逃走した男・独占インタビュー〉東アジア反日武装戦線「さそり」元メンバー・宇賀神寿一が語る「闘争の原点」と「さそり結成まで」
- 「“おぬし”に何がわかるんだ!」酔うと酒場で激昂…写真を撮られるのを極端に嫌っていた“自称・桐島聡”が15年前「結婚したい」と語っていた年下女性との恋
- なぜ公安は桐島聡を49年間、見つけられなかったのか? 盗聴、監視、尾行…ダークヒーロー公安警察の”実態“
- 「“うーやん”と呼ばれ客にも慕われていた」自称・桐島聡は行きつけのバーのBBQ大会にも参加、ブルースやサンバを愛しライブイベントでは踊っていた
- 「イェ~イ、イェイ」とDJバーを盛り上げ、ギターも弾いていた…でも「自分は幸せにできるタイプじゃないから」と女性との交際は拒否、過去に神奈川県警と接触も?〈自称・桐島聡〉