ももクロ卒業の有安杏果、ブレーク寸前取材を振り返り、未来を予測する
アイドルグループ・ももいろクローバーZの有安杏果が、グループからの卒業を発表した。21日、千葉・幕張メッセでのコンサートが卒業ライブになるという。所属するスターダストプロモーションとキングレコードとの契約も終了するため、芸能界とはいったん距離を置くという有安。ファンの間からは引退してしまうのでは、と心配の声も上がる。有安が加入した当時のももクロを振り返りつつ、今後の有安がどうなるのか考えてみたい。
有安のももクロ加入は、ブレーク直前の2009年7月
有安のももクロ加入が発表されたのは、2009年7月26日。筆者はそのわずか3日後、千葉・津田沼のヤマダ電機LABI津田沼店で、ももクロを単独取材している。単独といっても、当時はブレーク直前の段階で取材するメディア、ジャーナリストも少なかったのだ。 個人的に「オーラ」という言葉はあまり使いたくないと思っていて、ふだんは滅多に記事に書かないのだが、当時からももクロには取材したくなる「オーラ」があった。その1週間前に同じLABI津田沼店で偶然ももクロのインストアライブと遭遇し、ももいろの和服コスに身をつつんだ女の子たちのはじける笑顔、はじけるパフォーマンス、伝わってくるすべての波動が外側を向いて全開放されているような元気の良さに衝撃を受けた。「これは売れる!」……思わずその場でスタッフを呼んでもらい取材を申し込み、「来週もまたここにくるから、そのときに」という話になったのだった。 これは別に先見の明があったと自慢したいわけではなく、すでにももクロには熱心なファンがついていたし、コアなアイドルファンはこのずっと前からネクストブレーク的な存在として注目していた。それに比べれば筆者の取材などむしろ遅かったぐらいで、芸能関係の取材をしている者が当時のももクロを見れば、おそらく誰もが同じような感想を抱いたはずだ。それほどまでに、強烈な「オーラ」を放っていたのだ。
24カ所のヤマダ電機店舗で104公演の無料ライブを実施
当時ももクロは平均年齢14歳、「ももいろパンチ」でインディーズデビューする直前だった。全国のヤマダ電機をまわりミニライブ&握手会を敢行している真っ最中、ファンの数も増える一方で、とくに夏休みにさしかかっていたからよけいイベントに力を入れていたようだ。言ってみれば、これがある意味、初の全国ツアーとも言える。24カ所のヤマダ電機店舗で104公演の無料ライブを実施、夏休み期間はワゴンで車中泊をしながら全国を回った。 取材の日、小雨降るなかLABI津田沼店に向かうと、せまい事務所の一室に、彼女たちがいた。そこは傘の置き場所もないほどせまい部屋で、濡れた傘を適当に床の上に置いたのを記憶している。 しかしそのせまい部屋を突き破ってしまいそうなぐらい元気に、彼女たちは一斉に立ち上がると、礼儀正しく挨拶してくれた。この日欠席した早見あかり以外の5人がそろっていた。 リーダーの百田夏菜子は、「小さな頃からモーニング娘。さんが大好きで、コンサートにも行って、グッズも集めて。テレビに出てくると『あー!』って食いついて。私もそんなふうになりたいなと思って」ももクロに入ったと、目を輝かせていた。彼女はメンバーで唯一地方在住で、静岡から金曜に学校を終えると東京に駆けつけ、ももクロを率いていた。 玉井詩織も、モー娘。にあこがれていたと話していた。「『お母さんといっしょ』の番組で、一緒に踊ったりするのも好きだった。ももクロで踊ったり、歌うことができて楽しいです」と笑っていた。 最年長、当時16歳でただ一人の高校生だった高城れには、「最初、アニメのキャラクターになりたくて。そのうち女優さんになりたいって発展して」と芸能界を目指したきっかけを話し、「いまはももクロで、アーティストとして成功したい」と、しっかりと抱負を述べていた。 最年少の佐々木彩夏は「ママが(オーディションに)応募してくれたんですけど、小学校1年生からCMとかのお仕事をしています」と、キュートな声で一生懸命答えていた。 そして、最後に口を開いたのが加入まもない有安杏果だった。有安の加入は突然決まったらしく、「ももいろパンチ」のレコーディングにもPV撮影にも参加していない。この夏休みの全国行脚、プロモーション活動への参加から、ももクロメンバーとしての活動が始まったと言っていいだろう。 彼女は1歳から赤ちゃんモデルとして活躍し、3歳の時にはドラマ出演もしたといい、「ももクロで一番好きなダンスと歌ができるのが本当にすごいうれしくて」と、メンバーになれた喜びを炸裂させていた。