「大坂夏の陣」の焼け跡が出土 発掘調査現場を一般公開
「大坂夏の陣」の焼け跡が出土 発掘調査現場を一般公開 THEPAGE大阪
大阪城天守閣(大阪市中央区)に隣接した特別史跡大坂城跡の発掘調査現場で、大坂夏の陣(1615年)で焼け落ちた豊臣期大坂城の焼け跡を整地した整地層が出土し6日、一般公開された。整地層には屋根瓦の破片や黒く炭化した木材片などのがれきが混在し、夏の陣の戦いの激しさを物語る。公開は7日午後4時まで。
赤く焼けた瓦の破片や黒く炭化した木材片が点在
発掘調査現場は現天守閣の東南にある金蔵の東側エリア。豊臣期大坂城の石垣を再発掘して公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」に先立ち、周辺に残る遺構の状況を把握するため、市教育委員会などが継続的に調査を実施している。 現地説明会の写真で、研究員の立っている場所が、豊臣期大坂城で海抜がもっとも高く、太閤秀吉お気に入りの天守閣がそびえていた詰ノ丸の地表面だ。写真手前が南、写真奥が北で、今回の調査で初めて出土した。豊臣時代なら、黒光りする天守閣を見上げることができただろう。 この地表面から40センチほど高いところに、幅5センチほどのやや灰色がかった地層が、東西方向に水平に走っているのがお分かりになるだろうか。こちらの地層は大坂の陣終結後、徳川政権が再築した徳川大坂城時代の地平面と推定される。 豊臣期の地表面と徳川期の地平面の間にある40センチの厚い地層は、何を意味するのか。夏の陣で大坂城が落城炎上した際、焼け落ちた建物のがれきや焼土などが大量に発生。戦闘終結後、勝利した徳川方が本格的復興を前に、荒れ果てた城内を整地してならした整地層が、40センチの厚みに達したと考えられる。 研究員が指し棒で示している周囲に、赤く焼けた瓦の破片や黒く炭化した木材片などが点在している。豊臣期大坂城では、このエリアには石垣の上から敵を迎撃する隅櫓(すみやぐら)があったとされていることから、隅櫓の屋根瓦の破片などが埋め込まれた可能性が高い。
焼土層の上下にふたつの大坂城の地表面が重なり合う
1614年、秀吉の遺児秀頼の人気を背景に豊臣政権再興を狙う豊臣方と、天下統一の最終仕上げをもくろむ徳川方が、大坂で激突。冬の陣だ。豊臣方は大坂城ろう城作戦を敢行。真田信繁(幸村)の真田丸での奮戦などもあって、徳川方が大軍勢を誇りながら苦戦を余儀なくされ、勝者なき和睦に終わる。 翌15年の夏の陣、両軍は大坂各地で死闘を繰り返す。しかし、兵力で劣る豊臣方の勝ち目は薄い。後藤又兵衛、真田幸村などの有力武将たちが相次ぎ戦死。炎上する大坂城とともに豊臣家も滅亡する。 再び発掘現場に目を転じると、夏の陣後の焼土整地層をはさんで、豊臣期大坂城と徳川期大坂城の地表面が重なり合う。さらに豊臣期地表面の下には、城を築くための盛り土が眠っている。 石垣を支える裏込め石として、石臼や五輪塔、石塔の台座など、さまざまな石材を再利用。天下人の居城にふさわしい城作りを急いだため、近辺から石材をかき集めてきたらしい。