大宮の劇場に“島流し”…タモンズが諦めなかった理由「俺らのほうが面白いやろって思っていた」
お笑いの世界は非常にシビアな競争原理の上に成立している。「大宮セブン」は東京で結果を残せずに大宮の劇場に“島流し”に遭った二軍集団として始まった。しかし若者たちは「今に見てろよ…」と闘志を燃やし、やがては大宮の勢いが全国のお笑いファンに広く知られるようになる──。実話をもとにした映画『くすぶりの狂騒曲』は、タモンズを中心とした青春群像。大波康平(42)と安部浩章(42)の2人を直撃し、「お笑いに懸ける想い」や「諦めない秘訣」を語ってもらった!(前・中・後編の後編)>>前編・中編は下の関連記事からご覧ください。 【写真】映画版の大宮セブン、とタモンズの撮り下ろしカット ──大宮に新しく劇場ができたばかりのとき、そこに送られることは島流し同然だったといわれています。当時は何をモチベーションにして頑張っていたんですか? 大波 「島流し」という表現は決して間違いじゃないんだけど、そこが最底辺というわけでもなかったんですよ。僕らは大宮セブンというものを7組で結成して、それとは別に幕張の劇場でも幕張セブンスターズというのが7組で作られた。この14組というのは世間的にはまったくもって売れていないんだけど、その下には異常な数のどの劇場にも所属できない同期や先輩や後輩がいたんです。 安部 渋谷にはヨシモト無限大ホールという劇場があって、僕らもずっとそこでネタをやっていたんです。だけど、あるとき急に年齢制限が設けられ、「お前ら、もう出ていけ」ってことになったんですよね。そんなタイミングで大宮から声が掛かったから、正直、僕らとしてはありがたかったですよ。「まだネタができるんだ」って。 大波 もちろん大宮と幕張の14組より上の存在はいましたよ。たとえば当時だとパンサーとか。でも、そのクラスになると勝負する場所がメディアとか新宿ルミネの劇場になるから、僕たちとはバッティングしないんです。だから「島流しに遭った」という劣等感よりは、「なんとか14組に入れた」という安堵感のほうが大きかった気がします。 ──改めて厳しい世界なんですね。他の大宮セブンの6組については、どういう目で見ていたんですか? ライバルなのか、仲間なのか? 大波 基本、横並びなんですよ。というのもパンサーとか一線で活躍する人たちが一軍だとしたら、僕らは全員が二軍でしたから。言ってしまえば、全員が負けている集団なんです。負けたから大宮に来ているわけであって。したがって、負けた人たちに対してすごく寛容な面はありましたね。もちろん嫉妬もあったし、売れたいという気持ちはみんな持っていたけど、気持ちの上では支え合うようなところがあったかもしれない。 安部 単純に性格がいい人が集まっていたという面はありましたね。もしかしたら、初代支配人も性格で選んでいたのかもしれない。 ──タモンズというユニットの歴史を語るうえで外せないのは、「つき」への改名騒動(※2019年4月に改名するが、8カ月後に「タモンズ」に再改名)、1人入れてトリオ体制に移行するという計画でした。2人の間で何があったんですか? 安部 う~ん……まぁ要するに仲が悪かったんですよ、あの時期は。 ──あけすけに語りますね(笑)。